[{"id":"1","globalId":"daikatsu:1","sortOrder":"000000","kind":"daikatsu","title":"擬似体験の温床","content":"擬似体験の温床\n**「更に親鸞珍らしき法をも弘めず、如来の教法をわれも信じ人にも教え聞かしむるばかりなり」**\nが、聖人の常の仰せであり、蓮如上人もまた\n**「当流に更に沙汰せざる珍しき法門を讃嘆し、同じく宗義に無き面白き名目なんどを使う人これ多し。以ての外の僻案なり。自今已後、固く停止すべきものなり」。**\n両聖人の戒められる「当流に更に沙汰せざる珍しき法門」「宗義に無き面白き名目なんどを使う」とは、各人各様の信仰体験談のことである。\n同じ体験など毛頭ないからだ。\n「私が獲信した時はこうだった」「ああだった」「私はこのようにして信心決定した」。\nこれらの教えの抜けた体験至上主義者は、何時も何処の里にもあるものだ。\n人はまた、そんな体験談を異常に好むものである。\nそんな処は、寄ると触ると体験話がなされ、擬似体験の犠牲者を次々と生み出す温床となっている。\nだが善知識方は、「いつ」「どこで」「どの知識のもとで」「どのように」獲信したなど、どこにも遺されてはいない。\n決して親鸞学徒の本道を踏み外してはなるまい。","href":"/qa/1-12?open=daikatsu&daikatsuId=1","タイトル":"擬似体験の温床","本文":"**「更に親鸞珍らしき法をも弘めず、如来の教法をわれも信じ人にも教え聞かしむるばかりなり」**\nが、聖人の常の仰せであり、蓮如上人もまた\n**「当流に更に沙汰せざる珍しき法門を讃嘆し、同じく宗義に無き面白き名目なんどを使う人これ多し。以ての外の僻案なり。自今已後、固く停止すべきものなり」。**\n両聖人の戒められる「当流に更に沙汰せざる珍しき法門」「宗義に無き面白き名目なんどを使う」とは、各人各様の信仰体験談のことである。\n同じ体験など毛頭ないからだ。\n「私が獲信した時はこうだった」「ああだった」「私はこのようにして信心決定した」。\nこれらの教えの抜けた体験至上主義者は、何時も何処の里にもあるものだ。\n人はまた、そんな体験談を異常に好むものである。\nそんな処は、寄ると触ると体験話がなされ、擬似体験の犠牲者を次々と生み出す温床となっている。\nだが善知識方は、「いつ」「どこで」「どの知識のもとで」「どのように」獲信したなど、どこにも遺されてはいない。\n決して親鸞学徒の本道を踏み外してはなるまい。","教学聖典id":"1-12"},{"id":"10","globalId":"daikatsu:10","sortOrder":"000009","kind":"daikatsu","title":"慈悲は人間の最低条件","content":"慈悲は人間の最低条件\n「慈悲」は「抜苦与楽」の働きをいう。\n苦しみ悩む人を見ておれず、ともに悲しみ、何とか苦を抜いてやりたいという、「抜苦」の心が「慈」である。\n楽しみを与え、ともに喜びたい「与楽」が「悲」である。\n悲惨な災害や飢饉を見聞きすれば、かわいそうに、何かできないかと、心を動かされて当然だろう。\n他人がどれだけ苦しんでも平気な者、幸せにしたいと少しも思わぬ者は、無慈悲な人間といわれる。\nしかし慈悲は、人としての最低条件である。\nこの心を持たぬ者は、姿形は人間でも、鬼といわれて当然だ。\n「鬼」は本来「遠仁」と書き、「人の道から遠い」ことを表す。\nだから牙を生やし口は耳まで裂けた、恐ろしい形相で描かれる。\n仏さまは慈悲いっぱいの方であり「抜苦与楽」が仏教の目的である。\n無慈悲で冷淡では、親鸞学徒といえまい。\nひたすら、慈悲をまくのだ。\n**自利利他の菩薩道を進めば、愁苦の悩みも遁れ去る。**","href":"/qa/1-7?open=daikatsu&daikatsuId=10","タイトル":"慈悲は人間の最低条件","本文":"「慈悲」は「抜苦与楽」の働きをいう。\n苦しみ悩む人を見ておれず、ともに悲しみ、何とか苦を抜いてやりたいという、「抜苦」の心が「慈」である。\n楽しみを与え、ともに喜びたい「与楽」が「悲」である。\n悲惨な災害や飢饉を見聞きすれば、かわいそうに、何かできないかと、心を動かされて当然だろう。\n他人がどれだけ苦しんでも平気な者、幸せにしたいと少しも思わぬ者は、無慈悲な人間といわれる。\nしかし慈悲は、人としての最低条件である。\nこの心を持たぬ者は、姿形は人間でも、鬼といわれて当然だ。\n「鬼」は本来「遠仁」と書き、「人の道から遠い」ことを表す。\nだから牙を生やし口は耳まで裂けた、恐ろしい形相で描かれる。\n仏さまは慈悲いっぱいの方であり「抜苦与楽」が仏教の目的である。\n無慈悲で冷淡では、親鸞学徒といえまい。\nひたすら、慈悲をまくのだ。\n**自利利他の菩薩道を進めば、愁苦の悩みも遁れ去る。**","教学聖典id":"1-13, 3-44, 1-7"},{"id":"11","globalId":"daikatsu:11","sortOrder":"000010","kind":"daikatsu","title":"深信因果","content":"深信因果\n「朝、チャンと起こしてくれなかったから、遅刻したじゃないか」\n「こっちが近道だって言うから行ったのに、余計迷って時間がかかった」\n「環境が悪かったから、こんな性格になって失敗した」\nと他人を恨み、呪っている。\n自分の種蒔きを顧みず、あいつのせいだ、こいつのせいだと思えば思うほど、ますます自業苦へ堕ちていく。\n仏教の根幹は因果の道理。\n善因善果、悪因悪果、自因自果は、三世十方を貫いて変わらない。\n幸せに恵まれた時は、「オレが頑張ったから」とガッツポーズで得意顔だが、不幸に襲われた時だけ大宇宙の真理を認めないのは、論理一貫していない。\n善いのも悪いのも自分の運命のすべては、自分の蒔いたタネが生み出したものであり、それに例外はないのだ。\n親鸞学徒は、恨み呪いから懺悔と感謝の人生へ。\n愚痴一杯の私が、なぜこんな尊い教えに遇えたのか。\n自暴自棄的な考えや無気力なアキラメ主義を吹き飛ばし、過去を反省してよりよき未来の創造に全力挙げる、たくましい人生を開きたい。","href":"/qa/1-17?open=daikatsu&daikatsuId=11","タイトル":"深信因果","本文":"「朝、チャンと起こしてくれなかったから、遅刻したじゃないか」\n「こっちが近道だって言うから行ったのに、余計迷って時間がかかった」\n「環境が悪かったから、こんな性格になって失敗した」\nと他人を恨み、呪っている。\n自分の種蒔きを顧みず、あいつのせいだ、こいつのせいだと思えば思うほど、ますます自業苦へ堕ちていく。\n仏教の根幹は因果の道理。\n善因善果、悪因悪果、自因自果は、三世十方を貫いて変わらない。\n幸せに恵まれた時は、「オレが頑張ったから」とガッツポーズで得意顔だが、不幸に襲われた時だけ大宇宙の真理を認めないのは、論理一貫していない。\n善いのも悪いのも自分の運命のすべては、自分の蒔いたタネが生み出したものであり、それに例外はないのだ。\n親鸞学徒は、恨み呪いから懺悔と感謝の人生へ。\n愚痴一杯の私が、なぜこんな尊い教えに遇えたのか。\n自暴自棄的な考えや無気力なアキラメ主義を吹き飛ばし、過去を反省してよりよき未来の創造に全力挙げる、たくましい人生を開きたい。","教学聖典id":"1-17, 2-9, 2-49"},{"id":"12","globalId":"daikatsu:12","sortOrder":"000011","kind":"daikatsu","title":"実践してこそ","content":"実践してこそ\n「朝寝して、夜寝る前に昼寝して、起きてるときは居眠りをする」男があった。\n「そんなことばかりしていると、ホームレスになるぞ」と注意すると、「それは分かっている」といって、また寝てしまったという。\nこの男を笑える人があるだろうか。\n幸福を厭い、不幸を求める者などいない。\n善因善果、悪因悪果、自因自果と知れば、悪をおそれ、善に向かうはず。\n「よく分かった」「素晴らしい教えだ」といっても、実践のないのは、少しも分かっていないのだ。\n果ては、「我々のやる善は、どうせ雑毒の善なのだ」と、光に向かわぬ者さえいる。\nそれではこの世の善果さえ得られず、もはや仏法者でも、親鸞学徒でもない。\n実践は宗教の命。\n教えに忠実に、真剣に実行してこそ、この道を進ませていただける。\n観念の遊戯では一歩も進めないのだ。","href":"/qa/1-17?open=daikatsu&daikatsuId=12","タイトル":"実践してこそ","本文":"「朝寝して、夜寝る前に昼寝して、起きてるときは居眠りをする」男があった。\n「そんなことばかりしていると、ホームレスになるぞ」と注意すると、「それは分かっている」といって、また寝てしまったという。\nこの男を笑える人があるだろうか。\n幸福を厭い、不幸を求める者などいない。\n善因善果、悪因悪果、自因自果と知れば、悪をおそれ、善に向かうはず。\n「よく分かった」「素晴らしい教えだ」といっても、実践のないのは、少しも分かっていないのだ。\n果ては、「我々のやる善は、どうせ雑毒の善なのだ」と、光に向かわぬ者さえいる。\nそれではこの世の善果さえ得られず、もはや仏法者でも、親鸞学徒でもない。\n実践は宗教の命。\n教えに忠実に、真剣に実行してこそ、この道を進ませていただける。\n観念の遊戯では一歩も進めないのだ。","教学聖典id":"1-17, 5-28, 8-5"},{"id":"13","globalId":"daikatsu:13","sortOrder":"000012","kind":"daikatsu","title":"信疑決判","content":"信疑決判\n「救われたら、煩悩は少しくらい減るだろう。そうでなかったら救われたことにならんじゃないか」。\n朝起きてから夜寝るまで、欲や怒り、愚痴によって煩わされ悩まされている。\nだから苦しみの元は煩悩としか思えず、仏法を聞く目的は、その煩悩を抑えることだと思っている。\nだが親鸞聖人は、三世に渡って苦しめる元凶は、煩悩ではなく、無明の闇（疑情）だと断定されている。\n「弥陀に救われた」とは、「無明の闇が晴れてなくなった」ことをいうのだ。\n無明の闇は、弥陀に救われた一念でなくなるが、煩悩は減りもしなければ増えもしない。\n無論なくなるものではない。\n\n**「『凡夫』というは無明・煩悩われらが身にみちみちて、欲もおおく、瞋り腹だち、そねみねたむ心多く間なくして、臨終の一念に至るまで止まらず消えず絶えず」。**\n\n親鸞聖人仰せのとおり、信前信後通じて我々は、煩悩具足の凡夫である。\n本懐成就のポイントは、煩悩にあるのではない。\n無明の闇が晴れたか、否か。\nこの一点にかかっているのだ。","href":"/qa/1-25?open=daikatsu&daikatsuId=13","タイトル":"信疑決判","本文":"「救われたら、煩悩は少しくらい減るだろう。そうでなかったら救われたことにならんじゃないか」。\n朝起きてから夜寝るまで、欲や怒り、愚痴によって煩わされ悩まされている。\nだから苦しみの元は煩悩としか思えず、仏法を聞く目的は、その煩悩を抑えることだと思っている。\nだが親鸞聖人は、三世に渡って苦しめる元凶は、煩悩ではなく、無明の闇（疑情）だと断定されている。\n「弥陀に救われた」とは、「無明の闇が晴れてなくなった」ことをいうのだ。\n無明の闇は、弥陀に救われた一念でなくなるが、煩悩は減りもしなければ増えもしない。\n無論なくなるものではない。\n\n**「『凡夫』というは無明・煩悩われらが身にみちみちて、欲もおおく、瞋り腹だち、そねみねたむ心多く間なくして、臨終の一念に至るまで止まらず消えず絶えず」。**\n\n親鸞聖人仰せのとおり、信前信後通じて我々は、煩悩具足の凡夫である。\n本懐成就のポイントは、煩悩にあるのではない。\n無明の闇が晴れたか、否か。\nこの一点にかかっているのだ。","教学聖典id":"1-25, 3-20, 5-3"},{"id":"14","globalId":"daikatsu:14","sortOrder":"000013","kind":"daikatsu","title":"だれのことか","content":"だれのことか\n**「まことに死せんときは、予てたのみおきつる妻子も財宝も、わが身には一つも相添うことあるべからず。されば死出の山路のすえ・三途の大河をば、唯一人こそ行きなんずれ」（御文章）。**\n\n死んでゆく時は、みんな丸裸だと、蓮如上人は教えられる。\n天下統一の大仕事をなした太閤秀吉も、「難波のことも夢のまた夢」と言って息絶えた。\n日本中の富を我がものにしても、死ぬ時は、大阪城の瓦一枚持ってゆけぬ。\n生まれてきたのは何のためか。\n二千万や三千万の家を建てるためか？一億や二億の金を貯めるためか？一生懸命、汗水流して働いてどうするつもりだ。\n死ぬ時は、今まで頼りにしてきた妻子も金も物も、何一つ頼りになるものはない。\nすべてに見放され、ただ一人この世を去らねばならぬ。\nその先はどうか。\n死ねばどうなる。\nこれ以上の大問題はないはずだ。\nなのになぜ、本気で考えようとしない。\n「噴火山上の舞踏」とは、一体だれのことだと思っているのか。","href":"/qa/1-36?open=daikatsu&daikatsuId=14","タイトル":"だれのことか","本文":"**「まことに死せんときは、予てたのみおきつる妻子も財宝も、わが身には一つも相添うことあるべからず。されば死出の山路のすえ・三途の大河をば、唯一人こそ行きなんずれ」（御文章）。**\n\n死んでゆく時は、みんな丸裸だと、蓮如上人は教えられる。\n天下統一の大仕事をなした太閤秀吉も、「難波のことも夢のまた夢」と言って息絶えた。\n日本中の富を我がものにしても、死ぬ時は、大阪城の瓦一枚持ってゆけぬ。\n生まれてきたのは何のためか。\n二千万や三千万の家を建てるためか？一億や二億の金を貯めるためか？一生懸命、汗水流して働いてどうするつもりだ。\n死ぬ時は、今まで頼りにしてきた妻子も金も物も、何一つ頼りになるものはない。\nすべてに見放され、ただ一人この世を去らねばならぬ。\nその先はどうか。\n死ねばどうなる。\nこれ以上の大問題はないはずだ。\nなのになぜ、本気で考えようとしない。\n「噴火山上の舞踏」とは、一体だれのことだと思っているのか。","教学聖典id":"1-36"},{"id":"15","globalId":"daikatsu:15","sortOrder":"000014","kind":"daikatsu","title":"残水の小魚","content":"残水の小魚\n「残水の小魚、食を争うて、渇死することを知らず」\nわずかな水溜りの二匹のメダカが、あとわずかで、天日により日乾（ひぼ）しになって死ぬことも知らず、食物を争っている。\n余命いくばくもない人間が、土地じゃ財産じゃ、と狂奔している姿である。\n昭和の大スター石原裕次郎、美空ひばりも、五十二歳の若さで死んだ。\nまだ二、三十年は生きられる、との思いが、迷いの真っ只中。\n友人、親類の病死、事故死は、諸行無常の身業説法だ。\n死は人生最大の危機、どんな願いも成功も壊滅させ、一切を虚無と化す。\n不安、恐怖、後悔、暗黒、凍てつくような孤独感は、一切と切り離され、一人遠く去ってゆく臨終の実相だ。\nそして、無間地獄に堕つる後生の一大事。\n肌の乾き、顔や手足のシワが命の水の少ないことを教えている。\n早く残水の小魚たることに目覚めねばならぬ。","href":"/qa/1-36?open=daikatsu&daikatsuId=15","タイトル":"残水の小魚","本文":"「残水の小魚、食を争うて、渇死することを知らず」\nわずかな水溜りの二匹のメダカが、あとわずかで、天日により日乾（ひぼ）しになって死ぬことも知らず、食物を争っている。\n余命いくばくもない人間が、土地じゃ財産じゃ、と狂奔している姿である。\n昭和の大スター石原裕次郎、美空ひばりも、五十二歳の若さで死んだ。\nまだ二、三十年は生きられる、との思いが、迷いの真っ只中。\n友人、親類の病死、事故死は、諸行無常の身業説法だ。\n死は人生最大の危機、どんな願いも成功も壊滅させ、一切を虚無と化す。\n不安、恐怖、後悔、暗黒、凍てつくような孤独感は、一切と切り離され、一人遠く去ってゆく臨終の実相だ。\nそして、無間地獄に堕つる後生の一大事。\n肌の乾き、顔や手足のシワが命の水の少ないことを教えている。\n早く残水の小魚たることに目覚めねばならぬ。","教学聖典id":"1-36, 1-37, 1-40, 1-44, 1-46"},{"id":"16","globalId":"daikatsu:16","sortOrder":"000015","kind":"daikatsu","title":"信ずべきは弥陀一仏","content":"信ずべきは弥陀一仏\n人は何かを信じなければ生きてはいけない。\n病院で薬を処方されれば何の疑いもなく口の中へ放り込む。\n床屋でノドにカミソリ当てられても眠りこけている。\n信ぜずしては１日たりとも生きてはゆけぬ。\n生きるとは信じることなのだ。\nところが、信じているものに裏切られる時が必ず来る。\n\n**「まことに死せんときは、予てたのみおきつる妻子も財宝も、わが身には一つも相添うことあるべからず。されば死出の山路のすえ・三塗の大河をば、唯一人こそ行きなんずれ」。**\n\n蓮如上人の警鐘である。\n財布を落としてさえ幾晩も落ち込む。\n生涯を投じて建てた家を焼失したショックはいかほどか。\n愛する我が子との死別ほど深い悲嘆はなかろう。\n頼りにしている幸せが一つ瓦解してさえ、涙の海に突き落とされる。\nだが臨終には、すべてのものに裏切られ、たった一人、地上を去らねばならぬのだ。\n悲劇の滝壺に向かう我々に、信ずべきは「弥陀如来のみ」と明示されているのである。","href":"/qa/1-36?open=daikatsu&daikatsuId=16","タイトル":"信ずべきは弥陀一仏","本文":"人は何かを信じなければ生きてはいけない。\n病院で薬を処方されれば何の疑いもなく口の中へ放り込む。\n床屋でノドにカミソリ当てられても眠りこけている。\n信ぜずしては１日たりとも生きてはゆけぬ。\n生きるとは信じることなのだ。\nところが、信じているものに裏切られる時が必ず来る。\n\n**「まことに死せんときは、予てたのみおきつる妻子も財宝も、わが身には一つも相添うことあるべからず。されば死出の山路のすえ・三塗の大河をば、唯一人こそ行きなんずれ」。**\n\n蓮如上人の警鐘である。\n財布を落としてさえ幾晩も落ち込む。\n生涯を投じて建てた家を焼失したショックはいかほどか。\n愛する我が子との死別ほど深い悲嘆はなかろう。\n頼りにしている幸せが一つ瓦解してさえ、涙の海に突き落とされる。\nだが臨終には、すべてのものに裏切られ、たった一人、地上を去らねばならぬのだ。\n悲劇の滝壺に向かう我々に、信ずべきは「弥陀如来のみ」と明示されているのである。","教学聖典id":"1-36, 6-39"},{"id":"17","globalId":"daikatsu:17","sortOrder":"000016","kind":"daikatsu","title":"早く後生を心にかけよ","content":"早く後生を心にかけよ\n**「今日とも知らず、明日とも知らず、おくれ先だつ人は、本の雫・末の露よりも繁しといえり」（御文章）**\n\n無常の風はやまぬ。\n老いも若きも関係ない。\n若者が交通事故に遭い、海水浴の子供が溺死する。\n皆、今日とも明日とも知れぬ命だ。\n老少不定の薄氷を、煩悩罪障の重荷を背負って渡る境界が人間である。\n罪にもし形あれば三千世界に置き場のない重荷だから、一息切れたら八万劫中大苦悩は免れない。\n釈尊にある時お弟子が、「世尊は仏のさとりを開かれたお方、何事もご苦労に思われることはないでしょう」と尋ねた。\n釈尊は静かに、\n「私には、衆生が絶え間なく、雨の降るがごとく地獄に堕ちていく姿が見える。なんと哀れな者たちか。それだけが、この釈迦の苦しみだ」\nと答えられている。\nだれの人も早く、後生の一大事を心にかけねばならない。\n仏法の出発点である。","href":"/qa/1-11?open=daikatsu&daikatsuId=17","タイトル":"早く後生を心にかけよ","本文":"**「今日とも知らず、明日とも知らず、おくれ先だつ人は、本の雫・末の露よりも繁しといえり」（御文章）**\n\n無常の風はやまぬ。\n老いも若きも関係ない。\n若者が交通事故に遭い、海水浴の子供が溺死する。\n皆、今日とも明日とも知れぬ命だ。\n老少不定の薄氷を、煩悩罪障の重荷を背負って渡る境界が人間である。\n罪にもし形あれば三千世界に置き場のない重荷だから、一息切れたら八万劫中大苦悩は免れない。\n釈尊にある時お弟子が、「世尊は仏のさとりを開かれたお方、何事もご苦労に思われることはないでしょう」と尋ねた。\n釈尊は静かに、\n「私には、衆生が絶え間なく、雨の降るがごとく地獄に堕ちていく姿が見える。なんと哀れな者たちか。それだけが、この釈迦の苦しみだ」\nと答えられている。\nだれの人も早く、後生の一大事を心にかけねばならない。\n仏法の出発点である。","教学聖典id":"1-41, 1-42, 8-11,  1-11"},{"id":"18","globalId":"daikatsu:18","sortOrder":"000017","kind":"daikatsu","title":"この一座が最後","content":"この一座が最後\n猛暑が続いた七月の三連休、死亡事故が相次いだ。\n海の日の午後、部活の仲間と海水浴に来た新潟県の中学三年生が五十メートル沖で沈んでいるのが見つかった。\n一方、陸の上でも、少年サッカーの審判をしていた四十代の男性が熱中症で倒れ、運ばれた病院で亡くなった。\n死の縁無量。\n我々は、いつどんな縁で後生へと突っ込んでいくか分からない。\n蓮如上人は、 **「人間のはかなき事は老少不定のさかいなれば、誰の人も、はやく後生の一大事を心にかけて」（白骨の章）** と警鐘乱打なされている。\n「無常の風」の前では誰もが同い年、老いも若きも関係ない。\n事故のニュースを耳にしても、善知識の命懸けのお叫びを聞いても、「よもやよもや」で日を送り、一大事の解決から逃げ回ってばかりではないか。\n「後生」は遠い先のことではない。\n吐いた息が吸えない時から後生が始まる。\n吸う息吐く息と触れ合っているのが後生なのだ。\n「この一座が最後」と覚悟し、切れば血の出る聞法に身を沈めねばならぬ。","href":"/qa/1-44?open=daikatsu&daikatsuId=18","タイトル":"この一座が最後","本文":"猛暑が続いた七月の三連休、死亡事故が相次いだ。\n海の日の午後、部活の仲間と海水浴に来た新潟県の中学三年生が五十メートル沖で沈んでいるのが見つかった。\n一方、陸の上でも、少年サッカーの審判をしていた四十代の男性が熱中症で倒れ、運ばれた病院で亡くなった。\n死の縁無量。\n我々は、いつどんな縁で後生へと突っ込んでいくか分からない。\n蓮如上人は、 **「人間のはかなき事は老少不定のさかいなれば、誰の人も、はやく後生の一大事を心にかけて」（白骨の章）** と警鐘乱打なされている。\n「無常の風」の前では誰もが同い年、老いも若きも関係ない。\n事故のニュースを耳にしても、善知識の命懸けのお叫びを聞いても、「よもやよもや」で日を送り、一大事の解決から逃げ回ってばかりではないか。\n「後生」は遠い先のことではない。\n吐いた息が吸えない時から後生が始まる。\n吸う息吐く息と触れ合っているのが後生なのだ。\n「この一座が最後」と覚悟し、切れば血の出る聞法に身を沈めねばならぬ。","教学聖典id":"1-44"},{"id":"19","globalId":"daikatsu:19","sortOrder":"000018","kind":"daikatsu","title":"後悔を残すことなかれ","content":"後悔を残すことなかれ\n**「夫れ、人間の浮生なる相をつらつら観ずるに、凡そはかなきものは、この世の始中終、幻の如くなる一期なり」（蓮如上人）**\n\n「この感動だけは一生忘れたくない」と私たちは過去にすがり、行き先分からぬ未来から目を背けようとしている。\nしかし、時は冷酷に刻まれ、今宵、一夜の喜びもアルバムの一ページに収められ、色あせ、消えてゆく。\n名曲を聞いた感激も、初めて好きな人に手紙を書いたあのときめきも、すべては幻である。\n何もかもが輝いて見えた日々は二度と帰ってこないのだ。\nそして気がつくと、人生の終着駅。\n刹那の楽しみのみを追い求め、もっとも大切なことを忘れていたと、泣き崩れる人の、いかに多いことか。\n\n**「願わくは深く無常を念じて、徒に後悔を貽すこと勿れ」（親鸞聖人）**\n\n諸行無常の実相を凝視し、この世の終焉を涙で迎えぬよう、聞法精進せねばならない。","href":"/qa/1-44?open=daikatsu&daikatsuId=19","タイトル":"後悔を残すことなかれ","本文":"**「夫れ、人間の浮生なる相をつらつら観ずるに、凡そはかなきものは、この世の始中終、幻の如くなる一期なり」（蓮如上人）**\n\n「この感動だけは一生忘れたくない」と私たちは過去にすがり、行き先分からぬ未来から目を背けようとしている。\nしかし、時は冷酷に刻まれ、今宵、一夜の喜びもアルバムの一ページに収められ、色あせ、消えてゆく。\n名曲を聞いた感激も、初めて好きな人に手紙を書いたあのときめきも、すべては幻である。\n何もかもが輝いて見えた日々は二度と帰ってこないのだ。\nそして気がつくと、人生の終着駅。\n刹那の楽しみのみを追い求め、もっとも大切なことを忘れていたと、泣き崩れる人の、いかに多いことか。\n\n**「願わくは深く無常を念じて、徒に後悔を貽すこと勿れ」（親鸞聖人）**\n\n諸行無常の実相を凝視し、この世の終焉を涙で迎えぬよう、聞法精進せねばならない。","教学聖典id":"1-44"},{"id":"2","globalId":"daikatsu:2","sortOrder":"000001","kind":"daikatsu","title":"やらずに分かるか","content":"やらずに分かるか\n「真宗では **『雑行を捨てよ』** と嫌われるから、善を励むのは間違い」と聞き損なっている者がいる。\n雑行の物柄は、経には **「諸々の功徳」** と説き、釈には **「諸善万行」** といわれているから、そのもの自体が悪いのではない。\n「心得が悪いから、嫌われる」と知らないのである。\n〝この善根で悪い所へは行かないだろう〟と往生の資助にする気持ちでやるから、雑行と嫌われるのだが、物柄は諸善だから、やらねば善果が報うてくるはずがない。\n言うまでもなく、仏教の根本教理は、因果の道理。\n善因には善果、悪因には悪果、自因は自果を生み出すという三世十方を貫く真理である。\n真宗には、〝我々に善がつめるか〟と非難がましく言う者がいるが、やらねば、善果は得られず苦しむだけである。\nもちろん我々には、できることとできないこととがある。\nしかし、真剣にやろうとしない者にはどちらもハッキリしない。\nどうしてもやらねばならぬと真剣に取り組んでみて初めて、できることとできないこととがハッキリするのだ。","href":"/qa/2-25?open=daikatsu&daikatsuId=2","タイトル":"やらずに分かるか","本文":"「真宗では **『雑行を捨てよ』** と嫌われるから、善を励むのは間違い」と聞き損なっている者がいる。\n雑行の物柄は、経には **「諸々の功徳」** と説き、釈には **「諸善万行」** といわれているから、そのもの自体が悪いのではない。\n「心得が悪いから、嫌われる」と知らないのである。\n〝この善根で悪い所へは行かないだろう〟と往生の資助にする気持ちでやるから、雑行と嫌われるのだが、物柄は諸善だから、やらねば善果が報うてくるはずがない。\n言うまでもなく、仏教の根本教理は、因果の道理。\n善因には善果、悪因には悪果、自因は自果を生み出すという三世十方を貫く真理である。\n真宗には、〝我々に善がつめるか〟と非難がましく言う者がいるが、やらねば、善果は得られず苦しむだけである。\nもちろん我々には、できることとできないこととがある。\nしかし、真剣にやろうとしない者にはどちらもハッキリしない。\nどうしてもやらねばならぬと真剣に取り組んでみて初めて、できることとできないこととがハッキリするのだ。","教学聖典id":"2-25"},{"id":"20","globalId":"daikatsu:20","sortOrder":"000019","kind":"daikatsu","title":"前向きな発言","content":"前向きな発言\n「人界受生を喜べ、と言われても、少しも喜べない」\n「どれだけ聞いても、感謝の心が起きない」\n仏法者が、断じて言ってはならぬ、法謗の発言だ。\nこれでは求道のマイナスにこそなれ、プラスにはならない。\n正直に言っておればいい、と思い込んでいるのではかなかろうか。\n発言にも、前向き、後ろ向きがある。\n「喜べない」「感謝できない」などの言葉は、天に吐くツバ。\n身命賭して叫ばれる善知識のご辛労を踏み躙り、仏法者にあるまじき自損損他の罪と知らねばならぬ。\n感謝がなければ、なお「感謝せずにおれぬ」と前向きになろう。\n喜べなかったら、「喜ばずにおれないことではないか」と己に言いきかせてこそ、求道である。\n口は、退廃の元にもなり、奮起の因にもなる。\n厳に慎まねばならない。","href":"/qa/1-50?open=daikatsu&daikatsuId=20","タイトル":"前向きな発言","本文":"「人界受生を喜べ、と言われても、少しも喜べない」\n「どれだけ聞いても、感謝の心が起きない」\n仏法者が、断じて言ってはならぬ、法謗の発言だ。\nこれでは求道のマイナスにこそなれ、プラスにはならない。\n正直に言っておればいい、と思い込んでいるのではかなかろうか。\n発言にも、前向き、後ろ向きがある。\n「喜べない」「感謝できない」などの言葉は、天に吐くツバ。\n身命賭して叫ばれる善知識のご辛労を踏み躙り、仏法者にあるまじき自損損他の罪と知らねばならぬ。\n感謝がなければ、なお「感謝せずにおれぬ」と前向きになろう。\n喜べなかったら、「喜ばずにおれないことではないか」と己に言いきかせてこそ、求道である。\n口は、退廃の元にもなり、奮起の因にもなる。\n厳に慎まねばならない。","教学聖典id":"1-50, 2-2"},{"id":"21","globalId":"daikatsu:21","sortOrder":"000020","kind":"daikatsu","title":"後生の解決ただ一つ","content":"後生の解決ただ一つ\n「死んでからのことは、死んでみなければ分からん。つまらんことを問題にするな」。\nそう言いながら、有るやら無いやら分からぬ火災や老後は心配する。\n「老後のことは老後になってみにゃ分からん。つまらんこと」とはだれも言わない。\n考えが逆立ちしている。\n後生は万人の確実な未来である。\n一日生きれば一日死に近づいている。\n元気な時は、「死は休息だ」「永眠だ」「恐ろしくない」と気楽に考えているが、いよいよ死に臨めば、「その先はどうなっているか」だけが大問題となる。\n死後は有るのか無いのか、さっぱり分からぬ、お先真っ暗な状態なのだ。\nこれ以上の一大事はあるまい。\nこの後生暗い心の解決一つが、親鸞聖人決死の求道の目的であった。\n「明日ありと思う心のあだ桜夜半に嵐の吹かぬものかは」と詠まれ、出家されたのは九歳の御時。\nどれだけ年を重ねても後生を問題にせず、心配もしないのは、聞法の出発点にさえ、立っていないのである。","href":"/qa/1-8?open=daikatsu&daikatsuId=21","タイトル":"後生の解決ただ一つ","本文":"「死んでからのことは、死んでみなければ分からん。つまらんことを問題にするな」。\nそう言いながら、有るやら無いやら分からぬ火災や老後は心配する。\n「老後のことは老後になってみにゃ分からん。つまらんこと」とはだれも言わない。\n考えが逆立ちしている。\n後生は万人の確実な未来である。\n一日生きれば一日死に近づいている。\n元気な時は、「死は休息だ」「永眠だ」「恐ろしくない」と気楽に考えているが、いよいよ死に臨めば、「その先はどうなっているか」だけが大問題となる。\n死後は有るのか無いのか、さっぱり分からぬ、お先真っ暗な状態なのだ。\nこれ以上の一大事はあるまい。\nこの後生暗い心の解決一つが、親鸞聖人決死の求道の目的であった。\n「明日ありと思う心のあだ桜夜半に嵐の吹かぬものかは」と詠まれ、出家されたのは九歳の御時。\nどれだけ年を重ねても後生を問題にせず、心配もしないのは、聞法の出発点にさえ、立っていないのである。","教学聖典id":"1-8, 1-36, 1-37, 1-44"},{"id":"22","globalId":"daikatsu:22","sortOrder":"000021","kind":"daikatsu","title":"観念の遊戯から出でよ","content":"観念の遊戯から出でよ\n「我々に善ができるか」と非難する人がいる。\n仏眼からは確かにそのとおり。\n人間のやる善はすべて毒が混じっているから、『阿弥陀経』には、\n**「少善根福徳の因縁を以ては、彼の国に生るることを得べからず」**\n〝人間のできるどんな善を積んでも、それで弥陀の浄土へは往けない〟と説かれている。\nしかしだからといって、悪にほこってよいはずがない。\n「どうせ雑毒なのだ」と、一向に修善に向かおうとしないのは、とんでもない聞き誤りだ。\n「雑毒」と言われるのは、仏さまである。\n人間が人間に言うのは、泥棒が泥棒に注意しているようなもの。\n毒が混じっていても、善は善である。\n蒔いたタネは必ず生えるし、蒔かぬタネは絶対生えぬ。\n善因善果、悪因悪果、自因自果の因果の道理に寸分の狂いもない。\nやってもみずに、「善などできぬ」と、信後の境地を口真似しているのを、観念の遊戯というのだ。\n一切経を貫く因果の道理を踏みつけていては、仏法の真髄である親鸞聖人のみ教えが、分かるはずもない。","href":"/qa/2-25?open=daikatsu&daikatsuId=22","タイトル":"観念の遊戯から出でよ","本文":"「我々に善ができるか」と非難する人がいる。\n仏眼からは確かにそのとおり。\n人間のやる善はすべて毒が混じっているから、『阿弥陀経』には、\n**「少善根福徳の因縁を以ては、彼の国に生るることを得べからず」**\n〝人間のできるどんな善を積んでも、それで弥陀の浄土へは往けない〟と説かれている。\nしかしだからといって、悪にほこってよいはずがない。\n「どうせ雑毒なのだ」と、一向に修善に向かおうとしないのは、とんでもない聞き誤りだ。\n「雑毒」と言われるのは、仏さまである。\n人間が人間に言うのは、泥棒が泥棒に注意しているようなもの。\n毒が混じっていても、善は善である。\n蒔いたタネは必ず生えるし、蒔かぬタネは絶対生えぬ。\n善因善果、悪因悪果、自因自果の因果の道理に寸分の狂いもない。\nやってもみずに、「善などできぬ」と、信後の境地を口真似しているのを、観念の遊戯というのだ。\n一切経を貫く因果の道理を踏みつけていては、仏法の真髄である親鸞聖人のみ教えが、分かるはずもない。","教学聖典id":"2-25, 8-36"},{"id":"23","globalId":"daikatsu:23","sortOrder":"000022","kind":"daikatsu","title":"親鸞学徒の誇り","content":"親鸞学徒の誇り\n「花を持つ　人から退ける　山路かな」\n昔から、浄土真宗に伝わる歌である。\n花とは、弥陀より賜った真実信心の花・南無阿弥陀仏のことであり、広い意味では、「我は親鸞学徒なり」の誇り、プライドだといえよう。\n麗しい花を持つ人は、それが傷つかないよう、大事に抱きかかえて歩く。\n一本道の山路で、向こうから誰かが来たら、花を持つ人が自ら退けて、相手が通り過ぎるのをじっと待つ。\n大切な花に傷をつけたくないからだ。\n無上の法を知りながら、「あれで親鸞学徒か」と、他人から非難されるような言動を執っているのは、花を花とも思わず、無遠慮に一本道をズカズカと踏み進んでいるのだ。\nそれではせっかくの花も傷つき、散ってしまう。\n「親鸞学徒なり」の誇りがあればこそ、相手から無理難題を言われてもぶつからず、忍辱のよろいを着て譲るのだ。\n我々は常に、「花を持つ人」でありたい。","href":"/qa/2-27?open=daikatsu&daikatsuId=23","タイトル":"親鸞学徒の誇り","本文":"「花を持つ　人から退ける　山路かな」\n昔から、浄土真宗に伝わる歌である。\n花とは、弥陀より賜った真実信心の花・南無阿弥陀仏のことであり、広い意味では、「我は親鸞学徒なり」の誇り、プライドだといえよう。\n麗しい花を持つ人は、それが傷つかないよう、大事に抱きかかえて歩く。\n一本道の山路で、向こうから誰かが来たら、花を持つ人が自ら退けて、相手が通り過ぎるのをじっと待つ。\n大切な花に傷をつけたくないからだ。\n無上の法を知りながら、「あれで親鸞学徒か」と、他人から非難されるような言動を執っているのは、花を花とも思わず、無遠慮に一本道をズカズカと踏み進んでいるのだ。\nそれではせっかくの花も傷つき、散ってしまう。\n「親鸞学徒なり」の誇りがあればこそ、相手から無理難題を言われてもぶつからず、忍辱のよろいを着て譲るのだ。\n我々は常に、「花を持つ人」でありたい。","教学聖典id":"2-27, 4-25, 9-48"},{"id":"24","globalId":"daikatsu:24","sortOrder":"000023","kind":"daikatsu","title":"人間はみな同じ","content":"人間はみな同じ\nアニメ『王舎城の悲劇』の制作時、業者の一人が、「ビンバシャラ王と韋提希夫人のセリフは、長屋の夫婦みたいだ」と言ったという。\n王様夫妻と聞くと、人間離れした存在のように、みな思っている。\nそれが迷いである。\n王や王妃も、レッテルが違うだけで中身は一緒だ。\n同じ立場なら自分もああ言うだろうと、誰もが共感する。\n機の真実、人間の本当の姿を集中的に説かれた経典が『観無量寿経』である。\nどんな立場の者でも、最後は、『観無量寿経』に説かれているような姿になる。\n本当の人間を知りたければ『観経』を読め、とだから言われるのだ。\nお腹の子供が自分を恨んでいると分かって生み殺そうとする韋提希、ライバルだった従兄弟の釈迦が仏として抜きんでると、ねたみそねみで暗殺を企てる提婆、早く王位を譲れと父親に迫るアジャセ、登場人物すべての心が、己の中にうごめく。\n**「さるべき業縁の催せば、如何なる振舞もする」** 自己が、浮き彫りにされているのである。","href":"/qa/2-34?open=daikatsu&daikatsuId=24","タイトル":"人間はみな同じ","本文":"アニメ『王舎城の悲劇』の制作時、業者の一人が、「ビンバシャラ王と韋提希夫人のセリフは、長屋の夫婦みたいだ」と言ったという。\n王様夫妻と聞くと、人間離れした存在のように、みな思っている。\nそれが迷いである。\n王や王妃も、レッテルが違うだけで中身は一緒だ。\n同じ立場なら自分もああ言うだろうと、誰もが共感する。\n機の真実、人間の本当の姿を集中的に説かれた経典が『観無量寿経』である。\nどんな立場の者でも、最後は、『観無量寿経』に説かれているような姿になる。\n本当の人間を知りたければ『観経』を読め、とだから言われるのだ。\nお腹の子供が自分を恨んでいると分かって生み殺そうとする韋提希、ライバルだった従兄弟の釈迦が仏として抜きんでると、ねたみそねみで暗殺を企てる提婆、早く王位を譲れと父親に迫るアジャセ、登場人物すべての心が、己の中にうごめく。\n**「さるべき業縁の催せば、如何なる振舞もする」** 自己が、浮き彫りにされているのである。","教学聖典id":"2-34, 3-5"},{"id":"25","globalId":"daikatsu:25","sortOrder":"000024","kind":"daikatsu","title":"ここが決勝点だ","content":"ここが決勝点だ\n「仏法は聴聞に極まる」と聞くと、「どこまで聞けばいいのだ」と不平を鳴らす者がいる。\n**「『聞』と言うは、衆生、仏願の生起・本末を聞きて疑心有ること無し」**\nの親鸞聖人のご教導で明らかではないか。\n仏願の生起本末とは何か。\n**「唯除五逆誹謗正法」**、本願からも永除された逆謗の屍が私だった、と切り堕とされた一念に、**「若不生者不取正覚」** の弥陀の血潮に生き返る。\n本願にツユチリの疑いもなくなって、堕ちるに間違いなし、助かるに間違いなし、と機法二種一具の深信が立つ。\nまさに、絶対矛盾的自己同一とでもいおうか。\n弥陀の本願三十六文字と一体になり、本願や行者、行者や本願と躍り上がる。\n死ぬまで求道ではない。\nこの世で、完成する。\n未来永劫の一大事が、ただ今解決するのだ。\nいい加減な聞き方で、この大法がどうして聞けようぞ。\n**「たとい大千世界にみてらん火をもすぎゆきて仏の御名をきくひとはながく不退にかなうなり」（親鸞聖人）**","href":"/qa/3-35?open=daikatsu&daikatsuId=25","タイトル":"ここが決勝点だ","本文":"「仏法は聴聞に極まる」と聞くと、「どこまで聞けばいいのだ」と不平を鳴らす者がいる。\n**「『聞』と言うは、衆生、仏願の生起・本末を聞きて疑心有ること無し」**\nの親鸞聖人のご教導で明らかではないか。\n仏願の生起本末とは何か。\n**「唯除五逆誹謗正法」**、本願からも永除された逆謗の屍が私だった、と切り堕とされた一念に、**「若不生者不取正覚」** の弥陀の血潮に生き返る。\n本願にツユチリの疑いもなくなって、堕ちるに間違いなし、助かるに間違いなし、と機法二種一具の深信が立つ。\nまさに、絶対矛盾的自己同一とでもいおうか。\n弥陀の本願三十六文字と一体になり、本願や行者、行者や本願と躍り上がる。\n死ぬまで求道ではない。\nこの世で、完成する。\n未来永劫の一大事が、ただ今解決するのだ。\nいい加減な聞き方で、この大法がどうして聞けようぞ。\n**「たとい大千世界にみてらん火をもすぎゆきて仏の御名をきくひとはながく不退にかなうなり」（親鸞聖人）**","教学聖典id":"3-35"},{"id":"26","globalId":"daikatsu:26","sortOrder":"000025","kind":"daikatsu","title":"祖師の遺弟 奮起せよ","content":"祖師の遺弟 奮起せよ\n**「一宗の繁昌と申すは人の多く集り威の大いなる事にてはなく候、一人なりとも人の信を取るが一宗の繁昌に候。然れば『専修正行の繁昌は遺弟の念力より成ず』」**\n\n浄土真宗の繁昌を道破された蓮如上人のお言葉である。\n遺弟とは、親鸞聖人のみ教えを正確に伝える人をいう。\n「何としても伝えずにおれぬ」という遺弟の念力・活動により真実の仏法は伝えられ、多くの人が弥陀の本願を喜ぶ身となる。\n親鸞学徒は皆、遺弟である。\n親鸞聖人のみ教えという無上の宝を持ちながら伝えようとしないのは、施し方を知らぬか、宝を持っている自覚がないのか、どちらかだ。","href":"/qa/4-26?open=daikatsu&daikatsuId=26","タイトル":"祖師の遺弟 奮起せよ","本文":"**「一宗の繁昌と申すは人の多く集り威の大いなる事にてはなく候、一人なりとも人の信を取るが一宗の繁昌に候。然れば『専修正行の繁昌は遺弟の念力より成ず』」**\n\n浄土真宗の繁昌を道破された蓮如上人のお言葉である。\n遺弟とは、親鸞聖人のみ教えを正確に伝える人をいう。\n「何としても伝えずにおれぬ」という遺弟の念力・活動により真実の仏法は伝えられ、多くの人が弥陀の本願を喜ぶ身となる。\n親鸞学徒は皆、遺弟である。\n親鸞聖人のみ教えという無上の宝を持ちながら伝えようとしないのは、施し方を知らぬか、宝を持っている自覚がないのか、どちらかだ。","教学聖典id":"5-1, 4-26, 6-14, 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5-43"},{"id":"28","globalId":"daikatsu:28","sortOrder":"000027","kind":"daikatsu","title":"急いで急がず","content":"急いで急がず\n**「たとい大千世界にみてらん火をもすぎゆきて仏の御名をきくひとはながく不退にかなうなり」（親鸞聖人）**\n\n火の海かき分けても聞かねばならぬのが仏法である。\n一般に青年は、熱しやすく冷めやすい。\n始めは騎虎の勢いで求めるが、やがて尻切れトンボになりやすい。\n後生の一大事から出発した者は最後の勝利を克ちとるが、一時の感情で信心の境地に憧れたり、名聞利養のためにする聞法は絶対に続かない。\n若い求道力は極力、感情を殺し、一大事の後生を凝視していくべきである。\n今日あって明日なき命、一日も片時も急がねばならぬが、あまり慌てると、とんでもないところで座り込んだり、おかしなものをつかんだり、やけになって謗法の大罪を造り、果ては仏縁を断つという悲劇さえ起こすから、注意せねばならない。\nひたすら後生の一大事を念じ、急いで急がず、大地を一歩一歩踏み締めていく気持ちが大切である。","href":"/qa/4-17?open=daikatsu&daikatsuId=28","タイトル":"急いで急がず","本文":"**「たとい大千世界にみてらん火をもすぎゆきて仏の御名をきくひとはながく不退にかなうなり」（親鸞聖人）**\n\n火の海かき分けても聞かねばならぬのが仏法である。\n一般に青年は、熱しやすく冷めやすい。\n始めは騎虎の勢いで求めるが、やがて尻切れトンボになりやすい。\n後生の一大事から出発した者は最後の勝利を克ちとるが、一時の感情で信心の境地に憧れたり、名聞利養のためにする聞法は絶対に続かない。\n若い求道力は極力、感情を殺し、一大事の後生を凝視していくべきである。\n今日あって明日なき命、一日も片時も急がねばならぬが、あまり慌てると、とんでもないところで座り込んだり、おかしなものをつかんだり、やけになって謗法の大罪を造り、果ては仏縁を断つという悲劇さえ起こすから、注意せねばならない。\nひたすら後生の一大事を念じ、急いで急がず、大地を一歩一歩踏み締めていく気持ちが大切である。","教学聖典id":"5-29, 4-17"},{"id":"29","globalId":"daikatsu:29","sortOrder":"000028","kind":"daikatsu","title":"火中突破の決心","content":"火中突破の決心\n**「たとい大千世界に満てらん火をもすぎゆきて仏の御名をきく人はながく不退にかなうなり」（親鸞聖人）**\n\n〝大宇宙充満の、火中突破の決心で、仏の御名を聞く人は必ず、絶対の幸福になれる〟と仰せである。\n「無茶な！そんなことしたら死んでしまう」と誰しも思う。\n火を恐れ、尻込みする心が、あとからあとから出てくる。\nだが、火の中かき分けても聞かねばならぬことがある、それが仏法だ、と釈尊も聖人も仰有る。\nお前は、何しに人間に生まれてきたのだ。\n金か、名誉か、色か、財か。\n臨終に儚く消える幻のために生まれてきたのか。\nそうではないはずだ。\nされば、仏教を聞いている時こそが、人生で最も大切な仕事をしていることになる。\n猛火を突破するどころか、少々の障害で、万劫にも遇えぬご縁を捨てているのは、もったいない限り。\n明日なき命、臨終に血の涙を流して後悔しても遅いのだ。\n\n**「命のうちに不審もとくとく晴れられ候わでは定めて後悔のみにて候わんずるぞ、御心得あるべく候」（蓮如上人）**","href":"/qa/5-29?open=daikatsu&daikatsuId=29","タイトル":"火中突破の決心","本文":"**「たとい大千世界に満てらん火をもすぎゆきて仏の御名をきく人はながく不退にかなうなり」（親鸞聖人）**\n\n〝大宇宙充満の、火中突破の決心で、仏の御名を聞く人は必ず、絶対の幸福になれる〟と仰せである。\n「無茶な！そんなことしたら死んでしまう」と誰しも思う。\n火を恐れ、尻込みする心が、あとからあとから出てくる。\nだが、火の中かき分けても聞かねばならぬことがある、それが仏法だ、と釈尊も聖人も仰有る。\nお前は、何しに人間に生まれてきたのだ。\n金か、名誉か、色か、財か。\n臨終に儚く消える幻のために生まれてきたのか。\nそうではないはずだ。\nされば、仏教を聞いている時こそが、人生で最も大切な仕事をしていることになる。\n猛火を突破するどころか、少々の障害で、万劫にも遇えぬご縁を捨てているのは、もったいない限り。\n明日なき命、臨終に血の涙を流して後悔しても遅いのだ。\n\n**「命のうちに不審もとくとく晴れられ候わでは定めて後悔のみにて候わんずるぞ、御心得あるべく候」（蓮如上人）**","教学聖典id":"5-29, 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と続いている。\n胸に手を当てて考えよ。\n今晩までの命だったら、それでも仕事を優先するか。\n明日がないなら働いて生計を立てる意味がない。\nだから、「ムチャ言うな」と思う心の底には、明日も明後日もまだまだ生きておれるという心が頑としてあるということだ。\nだが、死はこちらの都合とは無関係に突然来る。\n命の藤蔓はもう寸断されているのに、それでも驚かぬ。\n明日はある━━その誤った信念が、今日聞かなければ明日、今年聞けねば来年と、善知識の血を吐くお叫びを、この次この次と先送りして地獄へ赴かせるのだ。\n仏法に明日はない。\n心して今日聞け。","教学聖典id":"5-31, 1-39, 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9-15"},{"id":"34","globalId":"daikatsu:34","sortOrder":"000033","kind":"daikatsu","title":"教えが大事","content":"教えが大事\n〝ニセ信心〟の中には、信前の者には紛らわしいものもある。\n〝安楽椅子〟に座り込んだが最後、永久の流転を覚悟せねばならぬ。\nそんな悲劇はどうしたら避けられるのか。\n\n**「同行・善知識にはよくよく近づくべし。『親近せざるは雑修の失なり』と『礼讃』にあらわせり」（御一代記聞書）**\n\n仏法を聞き求めてゆく時に大切な心掛けを、「教えが大事、連れが大事」と蓮如上人は仰有る。\n常に真実の教え、親鸞聖人のみ教えを聞くご縁を求めていくことが大切だ。\nニセモノがニセモノと分からないから迷ってしまう。\nだからこそ真実の教法を、不断に聴聞しなければならぬ。\nまた、ご法話に参詣しても、自分勝手に聞いているところが必ずある。\n自分で自分の聞き誤りは分からないから、「同朋の里」は、心のままに法友と、信心の沙汰をする場とせねばならない。\n\n**「一句一言を聴聞するとも、ただ得手に法を聞くなり。ただよく聞き、心中の通を同行に会い談合すべきことなり」（蓮如上人）**","href":"/qa/5-2?open=daikatsu&daikatsuId=34","タイトル":"教えが大事","本文":"〝ニセ信心〟の中には、信前の者には紛らわしいものもある。\n〝安楽椅子〟に座り込んだが最後、永久の流転を覚悟せねばならぬ。\nそんな悲劇はどうしたら避けられるのか。\n\n**「同行・善知識にはよくよく近づくべし。『親近せざるは雑修の失なり』と『礼讃』にあらわせり」（御一代記聞書）**\n\n仏法を聞き求めてゆく時に大切な心掛けを、「教えが大事、連れが大事」と蓮如上人は仰有る。\n常に真実の教え、親鸞聖人のみ教えを聞くご縁を求めていくことが大切だ。\nニセモノがニセモノと分からないから迷ってしまう。\nだからこそ真実の教法を、不断に聴聞しなければならぬ。\nまた、ご法話に参詣しても、自分勝手に聞いているところが必ずある。\n自分で自分の聞き誤りは分からないから、「同朋の里」は、心のままに法友と、信心の沙汰をする場とせねばならない。\n\n**「一句一言を聴聞するとも、ただ得手に法を聞くなり。ただよく聞き、心中の通を同行に会い談合すべきことなり」（蓮如上人）**","教学聖典id":"5-49, 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6-35, 4-5, 9-39"},{"id":"36","globalId":"daikatsu:36","sortOrder":"000035","kind":"daikatsu","title":"〝現当無益〟にしてはならない","content":"〝現当無益〟にしてはならない\n弥陀の救いに二度ある。\n現世と当来。\nそれを二益法門といわれる。\n親鸞聖人の教えである。\nこの世で弥陀から南無阿弥陀仏の大功徳を賜り、満足一杯、絶対の幸福に生かされるのが現益、死ぬと同時に報土往生、弥陀同体の仏になるのが当益である。\n「この世はどうにもなれない。死んだら仏」と現益を否定する者、\n「死後はない。救いはこの世だ」と当益を否定する輩、いずれも浄土真宗ではないのだ。\nそんな中、現当二益の親鸞聖人の教えを知らされている我々は何と有り難いことか。\nだが、「聞いてさえおれば、そのうちに………」と、現益を獲ることを忘れて、当益を夢みてはいないだろうか。\n現在の延長が未来。\n今、救われなければ、未来も助からないのだ。\n平生の一念で救い摂る弥陀の誓願を聞き抜かねばならない。","href":"/qa/4-37?open=daikatsu&daikatsuId=36","タイトル":"〝現当無益〟にしてはならない","本文":"弥陀の救いに二度ある。\n現世と当来。\nそれを二益法門といわれる。\n親鸞聖人の教えである。\nこの世で弥陀から南無阿弥陀仏の大功徳を賜り、満足一杯、絶対の幸福に生かされるのが現益、死ぬと同時に報土往生、弥陀同体の仏になるのが当益である。\n「この世はどうにもなれない。死んだら仏」と現益を否定する者、\n「死後はない。救いはこの世だ」と当益を否定する輩、いずれも浄土真宗ではないのだ。\nそんな中、現当二益の親鸞聖人の教えを知らされている我々は何と有り難いことか。\nだが、「聞いてさえおれば、そのうちに………」と、現益を獲ることを忘れて、当益を夢みてはいないだろうか。\n現在の延長が未来。\n今、救われなければ、未来も助からないのだ。\n平生の一念で救い摂る弥陀の誓願を聞き抜かねばならない。","教学聖典id":"4-37, 6-44, 4-38, 4-42, 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と教誡なされるのだ。\n人生の目的（仏法）と手段（仕事）を峻別されたご教導である。","href":"/qa/2-43?open=daikatsu&daikatsuId=37","タイトル":"目的と手段、どちらが先か","本文":"「生きる目的よりも、生活の基盤が大事」とみな思っている。\nだが蓮如上人は『御一代記聞書』に、**「仏法には世間の隙（仕事）を闕きて（やめて）聞くべし」**と言われている。\n働かなければ生きてはゆけぬ、と猛反発が沸き起こるだろうが、「太平洋の真ん中に放り出されたら、どうしますか」と尋ねたらよい。\n「そりゃあ泳ぐしかない」と答えたら、「何処へ向ってか」と聞けば何と答えるか。\n「何処でもよい、とにかく泳ぐだけだ」と言う者はまずはあるまい。\nやがて体力尽きて、溺死あるのみだからである。\n〝生活の基盤作り〟をどうするかは、〝どう泳ぐか〟の問題だ。\n救いのある方角知らずに、泳ぎ方の工夫はナンセンスで、無駄である。\n当然、泳ぐ前に知らねばならぬ事は、泳いで所詮のある方角である。\n明白であろう。\n救助の大船の厳存と、その方角を明示されているのが、仏法である。\nさればこそ蓮如上人は、 **「仏法には世間の隙（仕事）を闕きて聞くべし、世間の隙をあけて法を聞くべき様に思う事浅ましきことなり」** と教誡なされるのだ。\n人生の目的（仏法）と手段（仕事）を峻別されたご教導である。","教学聖典id":"5-31, 2-43"},{"id":"38","globalId":"daikatsu:38","sortOrder":"000037","kind":"daikatsu","title":"仏法に明日はない","content":"仏法に明日はない\n**「仏法には世間の隙を闕きて聞くべし、世間の隙をあけて法を聞くべき様に思う事、浅ましきことなり。仏法には明日という事はあるまじき」（蓮如上人）**\n\n世間の仕事を放棄して聞かねばならぬ大事が仏法と辛辣だ。\n後生の一大事を知らぬ人は当然、仕事やめたら生活はどうなる、家族を養えるのかという心が出てくるだろう。\nだがそれは、明日も生きておれる、五年後も十年後もと思っているからである。\n今晩死んだら、今晩から後生。\nだから **「仏法には明日という事はあるまじき」** 、明日の命はないと斬り込まれるのだが、「まさか今日死ぬものか」と腹底は猛反発し、来月、来年の計画まで立てている。\n我々のその考えが正しければ、今日、交通事故で死ぬ人は一人もいないはずだ。\n我々が思えようと思えまいと、真実だから仏法では「明日はない」と警鐘乱打されるのだ。\n今、聞けなかったら、いつ救われるのか。","href":"/qa/5-31?open=daikatsu&daikatsuId=38","タイトル":"仏法に明日はない","本文":"**「仏法には世間の隙を闕きて聞くべし、世間の隙をあけて法を聞くべき様に思う事、浅ましきことなり。仏法には明日という事はあるまじき」（蓮如上人）**\n\n世間の仕事を放棄して聞かねばならぬ大事が仏法と辛辣だ。\n後生の一大事を知らぬ人は当然、仕事やめたら生活はどうなる、家族を養えるのかという心が出てくるだろう。\nだがそれは、明日も生きておれる、五年後も十年後もと思っているからである。\n今晩死んだら、今晩から後生。\nだから **「仏法には明日という事はあるまじき」** 、明日の命はないと斬り込まれるのだが、「まさか今日死ぬものか」と腹底は猛反発し、来月、来年の計画まで立てている。\n我々のその考えが正しければ、今日、交通事故で死ぬ人は一人もいないはずだ。\n我々が思えようと思えまいと、真実だから仏法では「明日はない」と警鐘乱打されるのだ。\n今、聞けなかったら、いつ救われるのか。","教学聖典id":"5-31, 8-11"},{"id":"39","globalId":"daikatsu:39","sortOrder":"000038","kind":"daikatsu","title":"弥陀と釈迦の違いを知れ","content":"弥陀と釈迦の違いを知れ\n「阿弥陀仏もお釈迦さまも、レッテルが違うだけで、同じ仏だろう」と思っている人が多いが、とんでもない誤りだ。\n蓮如上人は『御文章』に、 **「ここに弥陀如来と申すは、三世十方の諸仏の本師・本仏なれば」** と仰せである。\n地球上でただ一人、仏覚を開かれたお釈迦さまは、\n「大宇宙には地球のような世界が無数にある。そこには数え切れないほどの仏がまします」と説かれている。\nそれらの仏を「三世十方の諸仏」という。\n「本師本仏」とは先生のこと。\n〝弥陀如来は、大宇宙の仏方の師匠の仏さまだ〟と教えられている。\n釈尊も十方諸仏の一人だから、弥陀と釈迦は、「師匠と弟子の関係」なのだ。\n弟子の使命は、先生の本当の御心を、正確に、一人でも多くの人にお伝えする以外にあってはならぬ。\nゆえに釈迦は、 **「唯説弥陀本願海」（正信偈）** と一生涯、自分の師である弥陀の本願一つを明らかになされた。\nこの弥陀と釈迦の違いをハッキリ知らねば、仏教は絶対に分かるものではない。","href":"/qa/2-4?open=daikatsu&daikatsuId=39","タイトル":"弥陀と釈迦の違いを知れ","本文":"「阿弥陀仏もお釈迦さまも、レッテルが違うだけで、同じ仏だろう」と思っている人が多いが、とんでもない誤りだ。\n蓮如上人は『御文章』に、 **「ここに弥陀如来と申すは、三世十方の諸仏の本師・本仏なれば」** と仰せである。\n地球上でただ一人、仏覚を開かれたお釈迦さまは、\n「大宇宙には地球のような世界が無数にある。そこには数え切れないほどの仏がまします」と説かれている。\nそれらの仏を「三世十方の諸仏」という。\n「本師本仏」とは先生のこと。\n〝弥陀如来は、大宇宙の仏方の師匠の仏さまだ〟と教えられている。\n釈尊も十方諸仏の一人だから、弥陀と釈迦は、「師匠と弟子の関係」なのだ。\n弟子の使命は、先生の本当の御心を、正確に、一人でも多くの人にお伝えする以外にあってはならぬ。\nゆえに釈迦は、 **「唯説弥陀本願海」（正信偈）** と一生涯、自分の師である弥陀の本願一つを明らかになされた。\nこの弥陀と釈迦の違いをハッキリ知らねば、仏教は絶対に分かるものではない。","教学聖典id":"8-17, 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**「空しく皆十方・三世の諸仏の悲願に洩れて」（御文章）** と書かれ、\n大宇宙の仏方は、罪悪深重の我々を見捨てて逃げたのだと教えられている。\nゆえに、「阿弥陀仏以外の仏や菩薩や神を捨てよ」と、親鸞聖人は厳しく仰せになっている。\n我々を救済する力のないものに仕えていても、助かる道理がないではないか。\nおぼれる者がわらにすがっているようなもので、握ったまま沈んでしまう。\n〝イヌが西向きゃ、尾は東〟。\n阿弥陀仏以外の仏や菩薩や神に心が向いている間は、阿弥陀仏に一心一向にはなれないのである。","href":"/qa/2-15?open=daikatsu&daikatsuId=40","タイトル":"弥陀一仏に向かえ","本文":"**「一向専念無量寿仏」（大無量寿経）**\n\n〝本師本仏の阿弥陀仏（無量寿仏）一仏を、一心一向に念ぜよ、必ず救われるのだ〟\n弥陀一仏を専ら信ずる以外に全人類の助かる道は無いと、釈尊は明言されている。\n阿弥陀仏以外の仏や菩薩や神に、我々を救う力はないということだ。\nこれを蓮如上人は、 **「空しく皆十方・三世の諸仏の悲願に洩れて」（御文章）** と書かれ、\n大宇宙の仏方は、罪悪深重の我々を見捨てて逃げたのだと教えられている。\nゆえに、「阿弥陀仏以外の仏や菩薩や神を捨てよ」と、親鸞聖人は厳しく仰せになっている。\n我々を救済する力のないものに仕えていても、助かる道理がないではないか。\nおぼれる者がわらにすがっているようなもので、握ったまま沈んでしまう。\n〝イヌが西向きゃ、尾は東〟。\n阿弥陀仏以外の仏や菩薩や神に心が向いている間は、阿弥陀仏に一心一向にはなれないのである。","教学聖典id":"2-15, 8-17, 6-40,9-30,  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と書かれているのは、〝釈迦如来の金言（一向専念無量寿仏）を信じなさい〟とのご教導である。\n我々の一大事は、阿弥陀仏に救っていただく以外ないのだ。","href":"/qa/1-44?open=daikatsu&daikatsuId=42","タイトル":"目的は後生の解決","本文":"仏法を聞く目的は、後生の一大事の解決に極まる。\n「後生」と聞くと、三十年も五十年も先のことのように思いがちだが、今晩死ねば今晩から後生。\nいや一時間後、一分後かもしれない。\n吐いた息が吸えない時から後生が始まる。\n一息切れたらどうなるか。\n「一生造悪」が人間の実相だから、因果の道理に順じて、必ず無間地獄へ堕ちていく。\nこれを釈尊は、「必堕無間」と説かれている。\n全人類は例外なく、この一大事を抱えているから、科学が進歩し、豊かになっても真の幸福になれず、苦しみ続けているのだ。\n人間に生まれたのは、この後生の解決一つのためである。\n釈尊はその方法を、「一向専念無量寿仏」（本師本仏の阿弥陀仏一仏を一心一向に念ぜよ、必ず救われる）と明言なされた。\n親鸞聖人が『正信偈』に、 **「応に如来如実の言を信ずべし」** と書かれているのは、〝釈迦如来の金言（一向専念無量寿仏）を信じなさい〟とのご教導である。\n我々の一大事は、阿弥陀仏に救っていただく以外ないのだ。","教学聖典id":"1-44, 8-9, 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1-38,4-9 , 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3-12"},{"id":"46","globalId":"daikatsu:46","sortOrder":"000045","kind":"daikatsu","title":"達者なオラさえ参る","content":"達者なオラさえ参る\n江戸末期、讃岐国（香川県）に庄松同行という妙好人がいた。\nある日、庄松が隣の人をご法話に誘うと、家の奥から、「今日は病気で行けんわい」。\n庄松すかさず、「達者なオラでさえ参るんだぞー」。\nその一言で隣人は慌てて起き上がり、庄松のあとを追って聞きに行ったという。\n「病は死の便り」といわれる。\n食べたい、飲みたい、金儲けしたい、遊びたいと、生に酔いしれる我々に、\n「お前は死ぬ身だ。その肉体も、もうじき動かなくなるぞ」と、病は知らせてくれているのだ。\n病気なら、なおさら真剣に聞かねばならないのではないか、と庄松は言うのである。\n「また今度聞く」と先送りする我々に、「仏法に明日はない」と、蓮如上人は切り込まれる。\n\n**「人間は出ずる息は入るを待たぬならいなり。相構えて油断なく仏法を心に入れて、信心決定すべきものなり」（御文章）**\n\n今宵出てゆく、後生の覚悟はよいか。\n今、聞かなかったら永遠に聞けぬのだ。","href":"/qa/5-29?open=daikatsu&daikatsuId=46","タイトル":"達者なオラさえ参る","本文":"江戸末期、讃岐国（香川県）に庄松同行という妙好人がいた。\nある日、庄松が隣の人をご法話に誘うと、家の奥から、「今日は病気で行けんわい」。\n庄松すかさず、「達者なオラでさえ参るんだぞー」。\nその一言で隣人は慌てて起き上がり、庄松のあとを追って聞きに行ったという。\n「病は死の便り」といわれる。\n食べたい、飲みたい、金儲けしたい、遊びたいと、生に酔いしれる我々に、\n「お前は死ぬ身だ。その肉体も、もうじき動かなくなるぞ」と、病は知らせてくれているのだ。\n病気なら、なおさら真剣に聞かねばならないのではないか、と庄松は言うのである。\n「また今度聞く」と先送りする我々に、「仏法に明日はない」と、蓮如上人は切り込まれる。\n\n**「人間は出ずる息は入るを待たぬならいなり。相構えて油断なく仏法を心に入れて、信心決定すべきものなり」（御文章）**\n\n今宵出てゆく、後生の覚悟はよいか。\n今、聞かなかったら永遠に聞けぬのだ。","教学聖典id":"5-29, 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5-33"},{"id":"47","globalId":"daikatsu:47","sortOrder":"000046","kind":"daikatsu","title":"知らねば絶対進めない","content":"知らねば絶対進めない\n「教えを知っただけで、信心決定しなかったら何にもならぬ。合点だけでは価値がない」と言う者がいる。\n親鸞聖人のみ教えを軽く見たとんでもない妄言である。\n地球上、六十三億の中で真実を知らされている人はどれだけあろう。\n\"真実を知る者は幸福なり\"。\n知らぬ人と比べたら、ケタ違いに尊いのだ。\n親鸞聖人がご説法なされたのも、ご著書を残されたのも、「何とか教えを知らせたい」の御心一つである。\nそれなのに、「面倒くさい。目が痛くて本は読めん。覚えてもすぐに忘れる」と自分の都合で教学を馬鹿にして平気でいる。\n腹底に、そんな心がウロウロしてはいないか。\n妙好人・庄松は、「合点ゆかずば合点ゆくまで聞きなされ。聞けば合点のゆく教え」と言っている。\nまず合点せねば進めない。\nそこを抜かして、「合点したのは信ではないぞ。それは知ったの、覚えたの。合点せよとは口では言えど、不思議不思議のほかはない」の世界が知らされるはずがないのである。","href":"/qa/1-50?open=daikatsu&daikatsuId=47","タイトル":"知らねば絶対進めない","本文":"「教えを知っただけで、信心決定しなかったら何にもならぬ。合点だけでは価値がない」と言う者がいる。\n親鸞聖人のみ教えを軽く見たとんでもない妄言である。\n地球上、六十三億の中で真実を知らされている人はどれだけあろう。\n\"真実を知る者は幸福なり\"。\n知らぬ人と比べたら、ケタ違いに尊いのだ。\n親鸞聖人がご説法なされたのも、ご著書を残されたのも、「何とか教えを知らせたい」の御心一つである。\nそれなのに、「面倒くさい。目が痛くて本は読めん。覚えてもすぐに忘れる」と自分の都合で教学を馬鹿にして平気でいる。\n腹底に、そんな心がウロウロしてはいないか。\n妙好人・庄松は、「合点ゆかずば合点ゆくまで聞きなされ。聞けば合点のゆく教え」と言っている。\nまず合点せねば進めない。\nそこを抜かして、「合点したのは信ではないぞ。それは知ったの、覚えたの。合点せよとは口では言えど、不思議不思議のほかはない」の世界が知らされるはずがないのである。","教学聖典id":"1-50"},{"id":"48","globalId":"daikatsu:48","sortOrder":"000047","kind":"daikatsu","title":"悲劇の人生","content":"悲劇の人生\n学問や芸術、科学、医学、囲碁や将棋、剣道、柔道、書道、茶道、華道など、どこまで求めても、卒業も完成もない。\nだから、「死ぬまで求道」といわれる。\n「それがいいんだ、完成したと思ったら進歩がない」\n「死ぬまで求道こそ、素晴らしい」\nと言う人があるが、冷静に考えてみよ。\n「死ぬまで求道が素晴らしい」とは、百パーセント求まらぬものを、死ぬまで求め続けることの礼賛であり、ナンセンス極まりない。\n求めるのは、「求まる」ことを前提としているはずだ。\n絶対当たらぬ去年の宝くじと知りながら、だれが買い続けるだろう。\n死ぬまで、心からの満足も救いもないのに、「それでいい」と、どうして言えようか。\n「死ぬまで完成がない」と本当に分かってなお、求める人はいないはずだ。\n心の底では「完成」を夢みて走り続けているのだが、永遠にゴールはないのだ。\nこの世で完成があるのはただ一つ、「不体失往生」の、弥陀の本願だけである。","href":"/qa/3-19?open=daikatsu&daikatsuId=48","タイトル":"悲劇の人生","本文":"学問や芸術、科学、医学、囲碁や将棋、剣道、柔道、書道、茶道、華道など、どこまで求めても、卒業も完成もない。\nだから、「死ぬまで求道」といわれる。\n「それがいいんだ、完成したと思ったら進歩がない」\n「死ぬまで求道こそ、素晴らしい」\nと言う人があるが、冷静に考えてみよ。\n「死ぬまで求道が素晴らしい」とは、百パーセント求まらぬものを、死ぬまで求め続けることの礼賛であり、ナンセンス極まりない。\n求めるのは、「求まる」ことを前提としているはずだ。\n絶対当たらぬ去年の宝くじと知りながら、だれが買い続けるだろう。\n死ぬまで、心からの満足も救いもないのに、「それでいい」と、どうして言えようか。\n「死ぬまで完成がない」と本当に分かってなお、求める人はいないはずだ。\n心の底では「完成」を夢みて走り続けているのだが、永遠にゴールはないのだ。\nこの世で完成があるのはただ一つ、「不体失往生」の、弥陀の本願だけである。","教学聖典id":"3-19, 3-35, 5-17"},{"id":"49","globalId":"daikatsu:49","sortOrder":"000048","kind":"daikatsu","title":"聞き切る覚悟","content":"聞き切る覚悟\n「またあの話か、何十回も聞いた」\n「もう分かっている」\n百千万劫にも遇えぬ尊い仏縁に恵まれながら、不足を鳴らしている。\nだが、その人の「分かった」とは、どの程度のことなのか。\n人生の大事が本当に分かったら、聞いたことをすぐさま、ご縁のなかった人に言わずにおれないはずだ。\n親鸞聖人のお言葉の意味が心にコトッとおさまったら、正確に伝えられるはずだ。\nところが、いざ話してみると、相手に一言の仏語の意味も納得させられない。\nとすれば、己が十分分かっていない証拠ではないか。\n「聞いた」「分かった」は大間違い。\n聞いていない。\n分かっていないということだ。\nそんなお粗末な聞法には目が向かず、不平不満を並べているのは恐ろしい謗法罪である。\n壇上では、いつも弥陀の本願真実が説き切られている。\n聞く者はどうか。\n聞き流してきた我が身を猛省し、真剣な聴聞に身を沈めねばならぬ。\nもう時間はない。\n今日こそ聞き切る。\n一座一座が真剣勝負なのだ。","href":"/qa/1-35?open=daikatsu&daikatsuId=49","タイトル":"聞き切る覚悟","本文":"「またあの話か、何十回も聞いた」\n「もう分かっている」\n百千万劫にも遇えぬ尊い仏縁に恵まれながら、不足を鳴らしている。\nだが、その人の「分かった」とは、どの程度のことなのか。\n人生の大事が本当に分かったら、聞いたことをすぐさま、ご縁のなかった人に言わずにおれないはずだ。\n親鸞聖人のお言葉の意味が心にコトッとおさまったら、正確に伝えられるはずだ。\nところが、いざ話してみると、相手に一言の仏語の意味も納得させられない。\nとすれば、己が十分分かっていない証拠ではないか。\n「聞いた」「分かった」は大間違い。\n聞いていない。\n分かっていないということだ。\nそんなお粗末な聞法には目が向かず、不平不満を並べているのは恐ろしい謗法罪である。\n壇上では、いつも弥陀の本願真実が説き切られている。\n聞く者はどうか。\n聞き流してきた我が身を猛省し、真剣な聴聞に身を沈めねばならぬ。\nもう時間はない。\n今日こそ聞き切る。\n一座一座が真剣勝負なのだ。","教学聖典id":"1-35, 3-24"},{"id":"5","globalId":"daikatsu:5","sortOrder":"000004","kind":"daikatsu","title":"苦労して聞け","content":"苦労して聞け\n仏法は聴聞に極まる。\n親鸞聖人は、 **「大千世界に、みてらん火をもすぎゆきて聞け」**と教えられ、蓮如上人また、**「火の中を分けても法は聞くべきに、雨風雪はもののかずかは」** とお勧めになっている。\n先哲は、早く宿善を求め、信を獲んと思わば、\n（１）骨折って聞け、\n（２）衣食忘れて聞け、\n（３）間断なく聞け、\n（４）聞けぬ時は思い出せ、と指摘されている。\nいずれも苦労して聴聞に励めということだ。\n楽な聞法では、この法は聞けない。\n聴聞中、隣の人と話をしたり、居眠りしたり、他事を考える。\n近くに法座があれば参るが、少し遠方だと参る気がなくなる。\nこんなことでは真剣に聞いているとはいわれない。\nすべては後生の一大事が分からないからである。\nまた、仏法は正座して聞くもの。\nイスに座っている時と気持ちも変わるし、より真剣に聞かせていただける。\n永遠の楽果を教える仏法を求めるのに我々は、どれだけの労力を投入しているか。\n横着者のわが身を、静かに振り返ってみなければならない。","href":"/qa/5-29?open=daikatsu&daikatsuId=5","タイトル":"苦労して聞け","本文":"仏法は聴聞に極まる。\n親鸞聖人は、 **「大千世界に、みてらん火をもすぎゆきて聞け」**と教えられ、蓮如上人また、**「火の中を分けても法は聞くべきに、雨風雪はもののかずかは」** とお勧めになっている。\n先哲は、早く宿善を求め、信を獲んと思わば、\n（１）骨折って聞け、\n（２）衣食忘れて聞け、\n（３）間断なく聞け、\n（４）聞けぬ時は思い出せ、と指摘されている。\nいずれも苦労して聴聞に励めということだ。\n楽な聞法では、この法は聞けない。\n聴聞中、隣の人と話をしたり、居眠りしたり、他事を考える。\n近くに法座があれば参るが、少し遠方だと参る気がなくなる。\nこんなことでは真剣に聞いているとはいわれない。\nすべては後生の一大事が分からないからである。\nまた、仏法は正座して聞くもの。\nイスに座っている時と気持ちも変わるし、より真剣に聞かせていただける。\n永遠の楽果を教える仏法を求めるのに我々は、どれだけの労力を投入しているか。\n横着者のわが身を、静かに振り返ってみなければならない。","教学聖典id":"5-29"},{"id":"50","globalId":"daikatsu:50","sortOrder":"000049","kind":"daikatsu","title":"聞き難き仏法","content":"聞き難き仏法\n**「人身受け難し、今已に受く。仏法聞き難し、今已に聞く。この身今生に向って度せずんば、さらにいずれの生に向ってか、この身を度せん」（釈尊）**\n\n真実の仏法がいかに聞き難いか。\nお釈迦さまは譬えで説かれている。\nヒマラヤの山頂から垂らした糸を、麓の針の穴に通すことができようか。\n標高八千メートルでは、針も見えぬ。\n風で糸は揺れる。\nそれでも、何万年何億年と繰り返せば、ひょっとしたら針の穴に入るやもしれぬが、無いといってもよいくらい難しいことだ。\n仏法を聞かせていただくことは、それよりも有り難い、尊いご縁なのだよ、と。\n６５億の中で、親鸞学徒は、ほんの一握り。\nそんな稀有な幸せに生かされながら、不足を鳴らしているとすれば、何ともったいないことか。\n\n**「無上甚深微妙の法は、百千万劫にも値遇うこと難し。われ今見聞し受持することを得たり。願わくは如来の真実義を解したてまつらん」。**\n\n釈尊の聖語を、幾度も色読しなければならぬ。","href":"/qa/1-50?open=daikatsu&daikatsuId=50","タイトル":"聞き難き仏法","本文":"**「人身受け難し、今已に受く。仏法聞き難し、今已に聞く。この身今生に向って度せずんば、さらにいずれの生に向ってか、この身を度せん」（釈尊）**\n\n真実の仏法がいかに聞き難いか。\nお釈迦さまは譬えで説かれている。\nヒマラヤの山頂から垂らした糸を、麓の針の穴に通すことができようか。\n標高八千メートルでは、針も見えぬ。\n風で糸は揺れる。\nそれでも、何万年何億年と繰り返せば、ひょっとしたら針の穴に入るやもしれぬが、無いといってもよいくらい難しいことだ。\n仏法を聞かせていただくことは、それよりも有り難い、尊いご縁なのだよ、と。\n６５億の中で、親鸞学徒は、ほんの一握り。\nそんな稀有な幸せに生かされながら、不足を鳴らしているとすれば、何ともったいないことか。\n\n**「無上甚深微妙の法は、百千万劫にも値遇うこと難し。われ今見聞し受持することを得たり。願わくは如来の真実義を解したてまつらん」。**\n\n釈尊の聖語を、幾度も色読しなければならぬ。","教学聖典id":"1-50"},{"id":"51","globalId":"daikatsu:51","sortOrder":"000050","kind":"daikatsu","title":"聞き難き仏法","content":"聞き難き仏法\n「人生は無意味である」\nロシアの文豪トルストイの衝撃的な言葉である。\n如何なる哲学をもってしても、この一行を改めることはできなかった、とも彼は告白している。\n生涯をかけて、人生究極の目的を追究した彼を待ち受けていたのは、絶望でしかなかった。\n宗教と聞けば、キリスト教しか連想しない国において、真実の仏法との邂逅は、水中に火を求めるに等しいものであったのだ。\n正に仏法聞き難し。\nトルストイだけではない。\n人生の目的を模索しながらも、果たせずに死んでいった人の如何に多いことか。\n**「真の知識にあふことはかたきがなかになをかたし」**\nタナからボタモチで、当たり前のように仏法を聞き流してはこなかったか。\n今、聞かせて頂いている一言一言は、古今の哲学者が狂い廻るほど探し求めた無上の金言なのである。\n千万の大金をはたいてでも求める気持ちがあるだろうか。\n心しなければならない。","href":"/qa/3-19?open=daikatsu&daikatsuId=51","タイトル":"聞き難き仏法","本文":"「人生は無意味である」\nロシアの文豪トルストイの衝撃的な言葉である。\n如何なる哲学をもってしても、この一行を改めることはできなかった、とも彼は告白している。\n生涯をかけて、人生究極の目的を追究した彼を待ち受けていたのは、絶望でしかなかった。\n宗教と聞けば、キリスト教しか連想しない国において、真実の仏法との邂逅は、水中に火を求めるに等しいものであったのだ。\n正に仏法聞き難し。\nトルストイだけではない。\n人生の目的を模索しながらも、果たせずに死んでいった人の如何に多いことか。\n**「真の知識にあふことはかたきがなかになをかたし」**\nタナからボタモチで、当たり前のように仏法を聞き流してはこなかったか。\n今、聞かせて頂いている一言一言は、古今の哲学者が狂い廻るほど探し求めた無上の金言なのである。\n千万の大金をはたいてでも求める気持ちがあるだろうか。\n心しなければならない。","教学聖典id":"3-19"},{"id":"52","globalId":"daikatsu:52","sortOrder":"000051","kind":"daikatsu","title":"聞法こそ親鸞学徒の命","content":"聞法こそ親鸞学徒の命\n**「世人薄俗にして共に不急の事を諍う」（釈尊）**\n\n何のために生まれてきたのか、なぜ生きているのか、どんなに苦しくとも生きねばならぬのはなぜか−−。\n出世の本懐は、一大事の後生を解決し、無碍の一道に雄飛させていただく以外にない。\n人生最大の急務を教えられていながら、「不急の事」を追い求めてはいないだろうか。\n仕事も勉強も、家事も育児も、すべて目的に向かうための手段である。\n手段も大切だが、目的はもっと大事だ。\n百も千も合点承知のことだろう。\nだが、死を忘れ、毎日の衣食住の確保にエネルギーを投入し、心身ともにすり減らしているのは誰か。\n最優先すべき聞法を後回しにしてはいないか。\n顛倒した心の相に、迷いの深さを知らねばならない。\n己の心はあてにならぬ。\n教えの光を仰ぎ、順わせていただかねば、人生の目的に向かって一歩も進めぬ我が身なのだ。\n間断なき聞法こそ、親鸞学徒の命である。","href":"/qa/1-47?open=daikatsu&daikatsuId=52","タイトル":"聞法こそ親鸞学徒の命","本文":"**「世人薄俗にして共に不急の事を諍う」（釈尊）**\n\n何のために生まれてきたのか、なぜ生きているのか、どんなに苦しくとも生きねばならぬのはなぜか−−。\n出世の本懐は、一大事の後生を解決し、無碍の一道に雄飛させていただく以外にない。\n人生最大の急務を教えられていながら、「不急の事」を追い求めてはいないだろうか。\n仕事も勉強も、家事も育児も、すべて目的に向かうための手段である。\n手段も大切だが、目的はもっと大事だ。\n百も千も合点承知のことだろう。\nだが、死を忘れ、毎日の衣食住の確保にエネルギーを投入し、心身ともにすり減らしているのは誰か。\n最優先すべき聞法を後回しにしてはいないか。\n顛倒した心の相に、迷いの深さを知らねばならない。\n己の心はあてにならぬ。\n教えの光を仰ぎ、順わせていただかねば、人生の目的に向かって一歩も進めぬ我が身なのだ。\n間断なき聞法こそ、親鸞学徒の命である。","教学聖典id":"8-10, 1-47, 1-50, 9-48"},{"id":"53","globalId":"daikatsu:53","sortOrder":"000052","kind":"daikatsu","title":"無上の生き方","content":"無上の生き方\n人生には、命をかけてもなさねばならぬことがある。\n七百五十年前、関東の同行は、身命を省みず京都の親鸞聖人を訪ねている。\n往復二ヶ月もかかる長の道中。\n山賊や盗賊、ゴマのはえのむらがる命がけの旅である。\n川越えや、山越えの困難もあったろうし、宿代や食費など、莫大な旅費も要ったであろう。\n田地田畑を売り払い、家族と水盃を交わして出発したのも肯ける。\nまさに、「身命を顧みずして」であった。\n人生には、金よりも家族よりも命よりも大事なことがあることを、彼らはよくよく知らされていたのだ。\nそれは、後生の一大事の解決一つ。\nこの大目的のために、十余カ国の境も乗り越えたのである。\n古今東西、酔生夢死する者ばかり。\n真実を知り、真実に死ねる生涯程、無上の生き方があろうか。\n「金も名誉も地位も命もいらない奴ほど始末におえぬ者はない。そんな者でなければ大事業はできぬ」と西郷隆盛は言った。\n身を捨てて、求むる者にこそ、人生の大事業は成就し得るのである。","href":"/qa/5-34?open=daikatsu&daikatsuId=53","タイトル":"無上の生き方","本文":"人生には、命をかけてもなさねばならぬことがある。\n七百五十年前、関東の同行は、身命を省みず京都の親鸞聖人を訪ねている。\n往復二ヶ月もかかる長の道中。\n山賊や盗賊、ゴマのはえのむらがる命がけの旅である。\n川越えや、山越えの困難もあったろうし、宿代や食費など、莫大な旅費も要ったであろう。\n田地田畑を売り払い、家族と水盃を交わして出発したのも肯ける。\nまさに、「身命を顧みずして」であった。\n人生には、金よりも家族よりも命よりも大事なことがあることを、彼らはよくよく知らされていたのだ。\nそれは、後生の一大事の解決一つ。\nこの大目的のために、十余カ国の境も乗り越えたのである。\n古今東西、酔生夢死する者ばかり。\n真実を知り、真実に死ねる生涯程、無上の生き方があろうか。\n「金も名誉も地位も命もいらない奴ほど始末におえぬ者はない。そんな者でなければ大事業はできぬ」と西郷隆盛は言った。\n身を捨てて、求むる者にこそ、人生の大事業は成就し得るのである。","教学聖典id":"5-34"},{"id":"54","globalId":"daikatsu:54","sortOrder":"000053","kind":"daikatsu","title":"無上仏へのご挨拶","content":"無上仏へのご挨拶\n我々が最も尊び、礼を尽くさねばならぬのは、無上仏の阿弥陀如来である。\nだから、無上仏への合掌と、そのほかの時とは、お辞儀の深さ長さにハッキリした違いがあって当然だ。\n朝夕の勤行は無上仏へのご挨拶。\nその時、自分が座布団に座るのはどうだろう。\n最も大事なお客さまを迎える時、我が身が座布団に座り、「こんにちは」と言っているようなものではないか。\nそんな礼儀は、世界中どこにもない。\nまた自宅で勤行する時、暑いからといって扇風機やクーラーを入れたり、冬にストーブをつけているのは、無上仏に対して失礼千万である。\nお内陣の最上級のところにまします無上仏には、冷房も暖房もないのだから。\n昔の妙好人は、勤行前に水で身を浄めたという。\n無上仏の御前に出る時、汗くさい体では申し訳ないからだ。\nご苦労をしのぶため、割木に座ってお勤めをした同行もあった。\n無上仏を尊ぶ気持ちが薄いことを猛省せねばならない。","href":"/qa/5-35?open=daikatsu&daikatsuId=54","タイトル":"無上仏へのご挨拶","本文":"我々が最も尊び、礼を尽くさねばならぬのは、無上仏の阿弥陀如来である。\nだから、無上仏への合掌と、そのほかの時とは、お辞儀の深さ長さにハッキリした違いがあって当然だ。\n朝夕の勤行は無上仏へのご挨拶。\nその時、自分が座布団に座るのはどうだろう。\n最も大事なお客さまを迎える時、我が身が座布団に座り、「こんにちは」と言っているようなものではないか。\nそんな礼儀は、世界中どこにもない。\nまた自宅で勤行する時、暑いからといって扇風機やクーラーを入れたり、冬にストーブをつけているのは、無上仏に対して失礼千万である。\nお内陣の最上級のところにまします無上仏には、冷房も暖房もないのだから。\n昔の妙好人は、勤行前に水で身を浄めたという。\n無上仏の御前に出る時、汗くさい体では申し訳ないからだ。\nご苦労をしのぶため、割木に座ってお勤めをした同行もあった。\n無上仏を尊ぶ気持ちが薄いことを猛省せねばならない。","教学聖典id":"5-35"},{"id":"55","globalId":"daikatsu:55","sortOrder":"000054","kind":"daikatsu","title":"弥陀の仏心に直入せよ","content":"弥陀の仏心に直入せよ\n**「『南無阿弥陀仏』と申す文字は、その数わずかに六字なれば、さのみ功能のあるべきとも覚えざるに、この六字の名号の中には、無上甚深の功徳利益の広大なること、更にその極まりなきものなり」（蓮如上人）**\n\n「南無阿弥陀仏」の六字の名号には、無上甚深の功徳があると明らかにされている。\nたった六字の文字だから、そんなに功能はないように思えるだろうが、ネコに小判、ブタに真珠で、御名号に値がないのではない。\n凡夫に、値を知る知恵がないのだ。\n一切経は、「南無阿弥陀仏」の大功徳の解説書である。\n釈迦の広長の舌相をもって七千余巻を費やしてもなお足りず、 **「若し広説せば百千万劫にも窮め尽すこと能わじ」（大無量寿経）** とおっしゃっている。\n何億年かかっても説き尽くせぬ大功徳なのだ。\n御名号の尊さは、如実の体験を通じてのみ、知り得るものである。\n我々は、その六字の御名号を通して弥陀の仏心に直入しなければならない。","href":"/qa/3-40?open=daikatsu&daikatsuId=55","タイトル":"弥陀の仏心に直入せよ","本文":"**「『南無阿弥陀仏』と申す文字は、その数わずかに六字なれば、さのみ功能のあるべきとも覚えざるに、この六字の名号の中には、無上甚深の功徳利益の広大なること、更にその極まりなきものなり」（蓮如上人）**\n\n「南無阿弥陀仏」の六字の名号には、無上甚深の功徳があると明らかにされている。\nたった六字の文字だから、そんなに功能はないように思えるだろうが、ネコに小判、ブタに真珠で、御名号に値がないのではない。\n凡夫に、値を知る知恵がないのだ。\n一切経は、「南無阿弥陀仏」の大功徳の解説書である。\n釈迦の広長の舌相をもって七千余巻を費やしてもなお足りず、 **「若し広説せば百千万劫にも窮め尽すこと能わじ」（大無量寿経）** とおっしゃっている。\n何億年かかっても説き尽くせぬ大功徳なのだ。\n御名号の尊さは、如実の体験を通じてのみ、知り得るものである。\n我々は、その六字の御名号を通して弥陀の仏心に直入しなければならない。","教学聖典id":"3-42, 3-40"},{"id":"56","globalId":"daikatsu:56","sortOrder":"000055","kind":"daikatsu","title":"有り難い菩提心","content":"有り難い菩提心\n仏教で菩提心とは、仏道を求める心をいう。\n一休の狂歌のごとく、「人生は、食て寝て起きて、クソたれて、子は親となる、子は親となる」。\n毎日同じことの繰り返しで、ただ死んでいく人生に、「このままでいいのか。人生にはもっと何かあるはずだ。人生の目的が知りたい。そうでなければ死んでも死に切れない」と驚き立つ心こそ菩提心だが、そんな心の起きる人はまれである。\n大半は、食て寝て起きての人生を、「そんなものさ」とあきらめている。\n菩提心が起きねば、聞法の場へ足を運ぶなど金輪際ありえず、永久に流転を重ねる以外にない。\nだから菩提心とは、有り難く尊いものなのだ。\n自分で起こしたのではない。\n「何としても助けずばおかぬ」のやるせない弥陀の願心より起こさしめられた心だ。\n苦しみの連続の人生に驚き立つ菩提心を起こさせ、選択の願海に転入させる命懸けの弥陀の大恩を知れば、大切な仏縁、決しておろそかにはできぬ。","href":"/qa/1-5?open=daikatsu&daikatsuId=56","タイトル":"有り難い菩提心","本文":"仏教で菩提心とは、仏道を求める心をいう。\n一休の狂歌のごとく、「人生は、食て寝て起きて、クソたれて、子は親となる、子は親となる」。\n毎日同じことの繰り返しで、ただ死んでいく人生に、「このままでいいのか。人生にはもっと何かあるはずだ。人生の目的が知りたい。そうでなければ死んでも死に切れない」と驚き立つ心こそ菩提心だが、そんな心の起きる人はまれである。\n大半は、食て寝て起きての人生を、「そんなものさ」とあきらめている。\n菩提心が起きねば、聞法の場へ足を運ぶなど金輪際ありえず、永久に流転を重ねる以外にない。\nだから菩提心とは、有り難く尊いものなのだ。\n自分で起こしたのではない。\n「何としても助けずばおかぬ」のやるせない弥陀の願心より起こさしめられた心だ。\n苦しみの連続の人生に驚き立つ菩提心を起こさせ、選択の願海に転入させる命懸けの弥陀の大恩を知れば、大切な仏縁、決しておろそかにはできぬ。","教学聖典id":"1-5, 2-2"},{"id":"57","globalId":"daikatsu:57","sortOrder":"000056","kind":"daikatsu","title":"どこにおまえの喜ぶ世界があるのだ","content":"どこにおまえの喜ぶ世界があるのだ\nある雑誌に「夫への不満」「妻への不満」という記事が出ていた。\n世の妻たちの曰く。\n「夫は酒にだらしない」\n「女にだらしない」\n「子供の教育に無関心だ」\n「家庭を顧みない」\n「ケチン坊だ」\n「男性として能力が弱い」\n「威張りちらす」\n「わがままだ」……。\n\nこれに対して夫たちの曰く、\n「妻は夫を理解しない」\n「朝から晩まで気を張りづめで働いてくる我々を、温かく迎えるどころか日曜日はこき使う」\n「月給を巻き上げる」\n「ヒステリーだ」\n「お酒を飲むなとうるさい」\n「タバコもいけないと言う」\n「教育はこうよ」\n「帰りが遅い」\nと、とても憩いの場所じゃないと嘆いている。\n\n１３００年前、中国の善導大師は、「どちらを向いても、ただ愁嘆の声のみぞ聞く」と仰っているが、科学が急進した現代も、少しもそれは変わらない。\n拝めば病気が治り、金が儲かるという創価学会やら新興宗教だけが迷信なのではない。\n科学が進歩すれば、社会が発展すれば人間は幸福になれると信じているのも迷信だ。\nいつの時代、どこの国で幸福が実現したというのだ。\n一心一向に弥陀の本願を聞き抜けと言われることが、まだ分からないか。\n\n**火の中を 分けても法は聞くべきに 雨風雪は もののかずかは（蓮如上人）**","href":"/qa/5-29?open=daikatsu&daikatsuId=57","タイトル":"どこにおまえの喜ぶ世界があるのだ","本文":"ある雑誌に「夫への不満」「妻への不満」という記事が出ていた。\n世の妻たちの曰く。\n「夫は酒にだらしない」\n「女にだらしない」\n「子供の教育に無関心だ」\n「家庭を顧みない」\n「ケチン坊だ」\n「男性として能力が弱い」\n「威張りちらす」\n「わがままだ」……。\n\nこれに対して夫たちの曰く、\n「妻は夫を理解しない」\n「朝から晩まで気を張りづめで働いてくる我々を、温かく迎えるどころか日曜日はこき使う」\n「月給を巻き上げる」\n「ヒステリーだ」\n「お酒を飲むなとうるさい」\n「タバコもいけないと言う」\n「教育はこうよ」\n「帰りが遅い」\nと、とても憩いの場所じゃないと嘆いている。\n\n１３００年前、中国の善導大師は、「どちらを向いても、ただ愁嘆の声のみぞ聞く」と仰っているが、科学が急進した現代も、少しもそれは変わらない。\n拝めば病気が治り、金が儲かるという創価学会やら新興宗教だけが迷信なのではない。\n科学が進歩すれば、社会が発展すれば人間は幸福になれると信じているのも迷信だ。\nいつの時代、どこの国で幸福が実現したというのだ。\n一心一向に弥陀の本願を聞き抜けと言われることが、まだ分からないか。\n\n**火の中を 分けても法は聞くべきに 雨風雪は もののかずかは（蓮如上人）**","教学聖典id":"5-29, 8-25"},{"id":"58","globalId":"daikatsu:58","sortOrder":"000057","kind":"daikatsu","title":"現在ただ今の救いを聞け","content":"現在ただ今の救いを聞け\n「この世はどうにもなれない、死んだら阿弥陀さまは助けてくださるそうじゃ」と思っている人がいるが、とんだ聞き誤りである。\n現在が助からないで、どうして未来が助かるだろう。\n現在の延長が未来ではないか。\n三世因果の大道理を明らかにしたのが仏教である。\n今、真っ暗な生活している者が、どうして未来明るい浄土へ往けようか。\n現在火の車に乗せられて苦しんでいる者が、死んで極楽へ往ける道理がない。\n「そこが願力の不可思議で」と、寝とぼけたことを言う者もいるが、弥陀の願力が不可思議なのは当然である。\nだからこそ、この世はどうにもならないが、死んだら助かるという馬鹿げたことは成り立たないのだ。\n未来の大苦を救う力のある仏が、なぜ現在の苦悩を助けられぬのか。\nただ今の苦悩さえ救う力のないものを、どうして不可思議の願力と言えるのか。\nそれでは現当二益も平生業成も皆ウソになってしまう。\n親鸞聖人や蓮如上人が大ウソつきになってしまうではないか。\n「こんな明らかな救いにあずかるとは知りませんでした！」とハッキリするまで聞き抜くことだ。\n\n**たとい大千世界に　みてらん火をもすぎゆきて　仏の御名をきく人は　ながく不退にかなうなり（親鸞聖人）**","href":"/qa/5-17?open=daikatsu&daikatsuId=58","タイトル":"現在ただ今の救いを聞け","本文":"「この世はどうにもなれない、死んだら阿弥陀さまは助けてくださるそうじゃ」と思っている人がいるが、とんだ聞き誤りである。\n現在が助からないで、どうして未来が助かるだろう。\n現在の延長が未来ではないか。\n三世因果の大道理を明らかにしたのが仏教である。\n今、真っ暗な生活している者が、どうして未来明るい浄土へ往けようか。\n現在火の車に乗せられて苦しんでいる者が、死んで極楽へ往ける道理がない。\n「そこが願力の不可思議で」と、寝とぼけたことを言う者もいるが、弥陀の願力が不可思議なのは当然である。\nだからこそ、この世はどうにもならないが、死んだら助かるという馬鹿げたことは成り立たないのだ。\n未来の大苦を救う力のある仏が、なぜ現在の苦悩を助けられぬのか。\nただ今の苦悩さえ救う力のないものを、どうして不可思議の願力と言えるのか。\nそれでは現当二益も平生業成も皆ウソになってしまう。\n親鸞聖人や蓮如上人が大ウソつきになってしまうではないか。\n「こんな明らかな救いにあずかるとは知りませんでした！」とハッキリするまで聞き抜くことだ。\n\n**たとい大千世界に　みてらん火をもすぎゆきて　仏の御名をきく人は　ながく不退にかなうなり（親鸞聖人）**","教学聖典id":"5-29, 5-17"},{"id":"59","globalId":"daikatsu:59","sortOrder":"000058","kind":"daikatsu","title":"法蔵久遠の戦線に立つ","content":"法蔵久遠の戦線に立つ\n**「世人薄俗にして共に不急の事を諍う」（大無量寿経）**\n\n衣食住の生活に追い立てられ、計算ばかりしているから、後生とか、人生の目的を考える暇がない。\n愛欲と名利に狂わされて、因果の道理を踏みにじり、従苦入苦しているアホウドリが、十方衆生ではないだろうか。\n生きるために生きれば、苦しむだけの一生に終わり、後生に取り返しのつかない一大事が惹起する。\nだが〝なぜ生きる〟の大事を知りえぬ大衆は、〝どう生きる〟に突っ走り、それを最善無上と信じて疑わない。\nこの人類最大の迷妄を説き開くことのできるのは、我々親鸞学徒だけである。\nこれ以上の偉業はあるまい。\n難事中の難事を覚悟せねばならぬのは、当然である。\n全身全霊火の玉となり、〝どう生きる〟しか知らぬ群生海に、〝なぜ生きる〟と斬り込んでいく。\n法蔵久遠の戦線に立って、真実の仏法のために、その骨を埋めようではないか。","href":"/qa/6-13?open=daikatsu&daikatsuId=59","タイトル":"法蔵久遠の戦線に立つ","本文":"**「世人薄俗にして共に不急の事を諍う」（大無量寿経）**\n\n衣食住の生活に追い立てられ、計算ばかりしているから、後生とか、人生の目的を考える暇がない。\n愛欲と名利に狂わされて、因果の道理を踏みにじり、従苦入苦しているアホウドリが、十方衆生ではないだろうか。\n生きるために生きれば、苦しむだけの一生に終わり、後生に取り返しのつかない一大事が惹起する。\nだが〝なぜ生きる〟の大事を知りえぬ大衆は、〝どう生きる〟に突っ走り、それを最善無上と信じて疑わない。\nこの人類最大の迷妄を説き開くことのできるのは、我々親鸞学徒だけである。\nこれ以上の偉業はあるまい。\n難事中の難事を覚悟せねばならぬのは、当然である。\n全身全霊火の玉となり、〝どう生きる〟しか知らぬ群生海に、〝なぜ生きる〟と斬り込んでいく。\n法蔵久遠の戦線に立って、真実の仏法のために、その骨を埋めようではないか。","教学聖典id":"8-10, 6-13, 6-14"},{"id":"6","globalId":"daikatsu:6","sortOrder":"000005","kind":"daikatsu","title":"火の海かき分けて聞け","content":"火の海かき分けて聞け\n**「たとい大千世界にみてらん火をもすぎゆきて仏の御名をきくひとはながく不退にかなうなり」（親鸞聖人）**\n\n「火の海かき分けても聞かねばならぬのが仏法」と、聖人はご教示だ。\n楽な聞法で聞かれる法ではない。\n「これだけ聞いても分からん」とこぼす者がいるが、「これだけ」とは「どれだけ」か。\n一月に三、四日聞法したとして、一年でどれだけになるのか。\n臨終までどれほど聞けるのか。\n一日聞くと言っても、聴聞はわずか三、四時間。\n朝早くからくだらぬ五欲に追い回され、クタクタの体を運んで来て、残ったカスの時間とカスの心身で、何を聞こうとするのか。\nそれで果たして、どんなことが解決できるというのか。\n〝一日アルバイトして家が建たぬ〟とぼやく横着者を、笑えまい。\n仏法のため、後生の一大事解決のために、どれだけの努力と、時間と、金銭を投入しているか、静かに反省しなければならない。","href":"/qa/5-29?open=daikatsu&daikatsuId=6","タイトル":"火の海かき分けて聞け","本文":"**「たとい大千世界にみてらん火をもすぎゆきて仏の御名をきくひとはながく不退にかなうなり」（親鸞聖人）**\n\n「火の海かき分けても聞かねばならぬのが仏法」と、聖人はご教示だ。\n楽な聞法で聞かれる法ではない。\n「これだけ聞いても分からん」とこぼす者がいるが、「これだけ」とは「どれだけ」か。\n一月に三、四日聞法したとして、一年でどれだけになるのか。\n臨終までどれほど聞けるのか。\n一日聞くと言っても、聴聞はわずか三、四時間。\n朝早くからくだらぬ五欲に追い回され、クタクタの体を運んで来て、残ったカスの時間とカスの心身で、何を聞こうとするのか。\nそれで果たして、どんなことが解決できるというのか。\n〝一日アルバイトして家が建たぬ〟とぼやく横着者を、笑えまい。\n仏法のため、後生の一大事解決のために、どれだけの努力と、時間と、金銭を投入しているか、静かに反省しなければならない。","教学聖典id":"5-29"},{"id":"60","globalId":"daikatsu:60","sortOrder":"000059","kind":"daikatsu","title":"ハッキリするまで聞け","content":"ハッキリするまで聞け\n親鸞聖人は、真・仮をハッキリ水際立てて教えられた。\nこれは自分の一生が本物か、ニセモノかを決定づける大問題である。\n一生の課題として、体にかけて証明しなければならない。\n真宗の信心は、助かったことがハッキリするのか、しないのか、白か黒かのどちらかである。\n\n日本人の信仰観は「何事のおわしますかは知らねども、かたじけなさに涙こぼるる」の曖昧さにある。\nこれは死を忘れた不徹底さからくる。\nだから信じたつもりが実は疑っている。\nつまり感情や理屈、合点にすぎない。\nそれで、いつも不安と恐れと理屈がついてまわる。\n死が恐ろしい。\n生活の不安がある。\n人から少し言われると自己弁護する。\n\n一度きりの人生ではないか。\n真実求め、ニセを打ち破り、激しく燃えようではないか。\n自分の上に弥陀の本願まことをハッキリ証明するのだ。\n浄土真宗は“今こそ明らかに知られたり”とハッキリする教えである。\n救われたかどうか。\n今この往生の大問題をハッキリさせよう。","href":"/qa/2-22?open=daikatsu&daikatsuId=60","タイトル":"ハッキリするまで聞け","本文":"親鸞聖人は、真・仮をハッキリ水際立てて教えられた。\nこれは自分の一生が本物か、ニセモノかを決定づける大問題である。\n一生の課題として、体にかけて証明しなければならない。\n真宗の信心は、助かったことがハッキリするのか、しないのか、白か黒かのどちらかである。\n\n日本人の信仰観は「何事のおわしますかは知らねども、かたじけなさに涙こぼるる」の曖昧さにある。\nこれは死を忘れた不徹底さからくる。\nだから信じたつもりが実は疑っている。\nつまり感情や理屈、合点にすぎない。\nそれで、いつも不安と恐れと理屈がついてまわる。\n死が恐ろしい。\n生活の不安がある。\n人から少し言われると自己弁護する。\n\n一度きりの人生ではないか。\n真実求め、ニセを打ち破り、激しく燃えようではないか。\n自分の上に弥陀の本願まことをハッキリ証明するのだ。\n浄土真宗は“今こそ明らかに知られたり”とハッキリする教えである。\n救われたかどうか。\n今この往生の大問題をハッキリさせよう。","教学聖典id":"4-17, 2-22, 4-15"},{"id":"61","globalId":"daikatsu:61","sortOrder":"000060","kind":"daikatsu","title":"臨む心が肝心","content":"臨む心が肝心\n人として生まれ、命を懸けて進むべき道は、聴聞の一本道である。\n\nしかし、聞法会場まで体を運んで、そこで安心してしまう人がある。\n座った姿は真面目そうでも、心の中はどうだろう。\n\n今日聞けなかったら明日聞こう、明日聞けなかったら次に聞こう。\nそんな心はないだろうか。\nまた、「今晩のおかずは何にしよう」「嫁にあれとあれを言いつけてきたが、ちゃんとやっているだろうか。鬼のいぬ間にと、寝てるんじゃなかろうか」など、いらぬことばかり考えてはいないか。\nそんな聞法で、果たして何が解決するというのだろう。\n\n釈迦の十大弟子の一人、舎利弗にこういう話がある。\n舎利弗が、ある静寂な山中で座禅をしていた時、たまたま維摩居士がやってきた。\n「舎利弗、そこで何をしておられるか」。\n見れば分かることをわざわざ尋ねるのだから面白くない。\n「座禅をしております」\nと無愛想に舎利弗が答えると、すかさず維摩、\n「座禅!?それが座禅か、もし、じっと体を動かさないでいることが座禅なら、山の中の木は皆、立派に座禅しているぞ」と大喝した。\n\n我々も、ただ聞法の場に座ってさえいればよいのではない。\n臨む心が大事なのだ。\n今一度、自分の聞法を反省しなければならない。\n\n今日とも明日とも知れぬ命ではないか。\n毎日の報道はそれを明らかに教えている。\n5年も10年も寝た切りのお年寄りばかりが死ぬのではない。\n元気な者がバタバタ死んでいる。\nまさに「吸う息吐く息大無常」。\n後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏の本願を聞かせていただかねばならない。","href":"/qa/1-44?open=daikatsu&daikatsuId=61","タイトル":"臨む心が肝心","本文":"人として生まれ、命を懸けて進むべき道は、聴聞の一本道である。\n\nしかし、聞法会場まで体を運んで、そこで安心してしまう人がある。\n座った姿は真面目そうでも、心の中はどうだろう。\n\n今日聞けなかったら明日聞こう、明日聞けなかったら次に聞こう。\nそんな心はないだろうか。\nまた、「今晩のおかずは何にしよう」「嫁にあれとあれを言いつけてきたが、ちゃんとやっているだろうか。鬼のいぬ間にと、寝てるんじゃなかろうか」など、いらぬことばかり考えてはいないか。\nそんな聞法で、果たして何が解決するというのだろう。\n\n釈迦の十大弟子の一人、舎利弗にこういう話がある。\n舎利弗が、ある静寂な山中で座禅をしていた時、たまたま維摩居士がやってきた。\n「舎利弗、そこで何をしておられるか」。\n見れば分かることをわざわざ尋ねるのだから面白くない。\n「座禅をしております」\nと無愛想に舎利弗が答えると、すかさず維摩、\n「座禅!?それが座禅か、もし、じっと体を動かさないでいることが座禅なら、山の中の木は皆、立派に座禅しているぞ」と大喝した。\n\n我々も、ただ聞法の場に座ってさえいればよいのではない。\n臨む心が大事なのだ。\n今一度、自分の聞法を反省しなければならない。\n\n今日とも明日とも知れぬ命ではないか。\n毎日の報道はそれを明らかに教えている。\n5年も10年も寝た切りのお年寄りばかりが死ぬのではない。\n元気な者がバタバタ死んでいる。\nまさに「吸う息吐く息大無常」。\n後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏の本願を聞かせていただかねばならない。","教学聖典id":"1-44, 4-17, 5-30, 5-34"},{"id":"62","globalId":"daikatsu:62","sortOrder":"000061","kind":"daikatsu","title":"人を慰めるには","content":"人を慰めるには\n**「悲しみに悲しみを添うるようには、ゆめゆめ弔うべからず。─乃至─酒はこれ忘憂の名あり。これを勧めて笑うほどに慰めて去るべし」（口伝鈔）**\n\n別離に悲しむ人を慰めるには、かく接すべきであると親鸞聖人が仰っている。\n要約すれば、「遺族の悲しみが更に増すような言葉は慎むべきで、酒などを勧めて笑うほどに慰めるのがよい」ということである。\nここで「笑うほどに」とあるのが大変微妙なところで、大笑いは不謹慎だし、暗澹たる表情でも悲しみを誘う。\nそこで「笑うほどに」という表現をせられたのだが、この細やかな神経、深く相手の心の中に入った思いやりであってこそ慰めることができるので、それがなければ如何なる慰めも空しいものである。\n最近の冠婚葬祭のエチケット本などはどれもみな外面的な形式的な礼儀を説くばかりで何か大切なものが一つ欠けているような気がしてならない。\nその点、聖人のこのお言葉は、我々の忘れている大事な「心」のあり方を教えてくだされていて大変尊くしのばれる。","href":"/daikatsu?open=daikatsu&daikatsuId=62","タイトル":"人を慰めるには","本文":"**「悲しみに悲しみを添うるようには、ゆめゆめ弔うべからず。─乃至─酒はこれ忘憂の名あり。これを勧めて笑うほどに慰めて去るべし」（口伝鈔）**\n\n別離に悲しむ人を慰めるには、かく接すべきであると親鸞聖人が仰っている。\n要約すれば、「遺族の悲しみが更に増すような言葉は慎むべきで、酒などを勧めて笑うほどに慰めるのがよい」ということである。\nここで「笑うほどに」とあるのが大変微妙なところで、大笑いは不謹慎だし、暗澹たる表情でも悲しみを誘う。\nそこで「笑うほどに」という表現をせられたのだが、この細やかな神経、深く相手の心の中に入った思いやりであってこそ慰めることができるので、それがなければ如何なる慰めも空しいものである。\n最近の冠婚葬祭のエチケット本などはどれもみな外面的な形式的な礼儀を説くばかりで何か大切なものが一つ欠けているような気がしてならない。\nその点、聖人のこのお言葉は、我々の忘れている大事な「心」のあり方を教えてくだされていて大変尊くしのばれる。","教学聖典id":""},{"id":"63","globalId":"daikatsu:63","sortOrder":"000062","kind":"daikatsu","title":"地獄は何処にある","content":"地獄は何処にある\n地獄は本当にあるのか？あるのなら何処にあるのか？と尋ねる者がいる。\n漁師は、その子供に「板子一枚下は地獄だ、気をつけろ」と注意するし、魚はその子に「板子一枚上が地獄だ、気をつけろ」と教える。\n一体、地獄は上にあるのか、下にあるのか。\n上にもあろうし、下にもあろう。\n\n自分は今、嫉妬の炎を燃やしてはいないか、青筋立てて怒ってはいないか、心の中で他人を突いたり刺したりしていないか、むごたらしい殺生を数知れずやってはいないか。\n病院で大手術を受ける肉体の苦痛。\n社会や家庭より受ける精神的な苦悶。\n泣くに泣かれぬ逆境に立ち、他人を呪い、世間を恨んでいるのは、まさにジゴクではないか、ただ今のジゴクに気のつかない者に、未来永劫の一大事が、内包されているのだ。\n\n夢の世は　罪を罪とも　知らねども　報わんときぞ　思い知られん","href":"/qa/1-38?open=daikatsu&daikatsuId=63","タイトル":"地獄は何処にある","本文":"地獄は本当にあるのか？あるのなら何処にあるのか？と尋ねる者がいる。\n漁師は、その子供に「板子一枚下は地獄だ、気をつけろ」と注意するし、魚はその子に「板子一枚上が地獄だ、気をつけろ」と教える。\n一体、地獄は上にあるのか、下にあるのか。\n上にもあろうし、下にもあろう。\n\n自分は今、嫉妬の炎を燃やしてはいないか、青筋立てて怒ってはいないか、心の中で他人を突いたり刺したりしていないか、むごたらしい殺生を数知れずやってはいないか。\n病院で大手術を受ける肉体の苦痛。\n社会や家庭より受ける精神的な苦悶。\n泣くに泣かれぬ逆境に立ち、他人を呪い、世間を恨んでいるのは、まさにジゴクではないか、ただ今のジゴクに気のつかない者に、未来永劫の一大事が、内包されているのだ。\n\n夢の世は　罪を罪とも　知らねども　報わんときぞ　思い知られん","教学聖典id":"1-38, 1-48"},{"id":"64","globalId":"daikatsu:64","sortOrder":"000063","kind":"daikatsu","title":"動物園の虎とジャングルの虎","content":"動物園の虎とジャングルの虎\n真宗には、善に努めようともせず、「どうせ地獄一定だ」と開き直る者がいる。\n本当に地獄行きを覚悟してのことか。\nそれは親鸞聖人や、真心徹到した人の、ただの口真似ではなかろうか。\n\n動物園の虎もジャングルにすむ虎も、同じく虎には違いないが、動物園の虎は眺めておれるが、ジャングルでポカッと出合った虎は眺めてなんかおれないぞ。\n\n何ともなれん奴じゃと眺めている奴がいるじゃないか。\nどうにもなれませんと威張っている奴がいるではないか。\n凡夫には分からんもんだと、チャンと分かっとる奴がいるじゃないか。\nこんなことで行く末はどうなるかと楽しんでいる奴もいるじゃないか。\n苦しんではいても何ともない奴もいるじゃないか。\nどうすりゃいいんじゃと投げ出す下から信後を夢みる図太い奴がいるじゃないか。\nこんな私とは知らなんだとアキレていながら、人さえ見れば裁いている奴がいるじゃないか。\n\nそんな奴に無常は念々迫っている。\n一切の観念の遊戯が吹き飛び、後生の一大事を突きつけられ、ゆくも死、かえるも死、とどまるも死の三定死に立たされなければ、地獄一定と言っても言葉だけが空を切る。\n「火事じゃ火事じゃ、後生こそ一大事じゃ」と先達は、半鐘を打ち鳴らしている。\n弥陀の本願はその心で聞かねばならない。","href":"/qa/2-20?open=daikatsu&daikatsuId=64","タイトル":"動物園の虎とジャングルの虎","本文":"真宗には、善に努めようともせず、「どうせ地獄一定だ」と開き直る者がいる。\n本当に地獄行きを覚悟してのことか。\nそれは親鸞聖人や、真心徹到した人の、ただの口真似ではなかろうか。\n\n動物園の虎もジャングルにすむ虎も、同じく虎には違いないが、動物園の虎は眺めておれるが、ジャングルでポカッと出合った虎は眺めてなんかおれないぞ。\n\n何ともなれん奴じゃと眺めている奴がいるじゃないか。\nどうにもなれませんと威張っている奴がいるではないか。\n凡夫には分からんもんだと、チャンと分かっとる奴がいるじゃないか。\nこんなことで行く末はどうなるかと楽しんでいる奴もいるじゃないか。\n苦しんではいても何ともない奴もいるじゃないか。\nどうすりゃいいんじゃと投げ出す下から信後を夢みる図太い奴がいるじゃないか。\nこんな私とは知らなんだとアキレていながら、人さえ見れば裁いている奴がいるじゃないか。\n\nそんな奴に無常は念々迫っている。\n一切の観念の遊戯が吹き飛び、後生の一大事を突きつけられ、ゆくも死、かえるも死、とどまるも死の三定死に立たされなければ、地獄一定と言っても言葉だけが空を切る。\n「火事じゃ火事じゃ、後生こそ一大事じゃ」と先達は、半鐘を打ち鳴らしている。\n弥陀の本願はその心で聞かねばならない。","教学聖典id":"2-20, 2-21, 8-12, 6-5"},{"id":"65","globalId":"daikatsu:65","sortOrder":"000064","kind":"daikatsu","title":"寒林に骸を打つ","content":"寒林に骸を打つ\n釈尊が林の中を歩いておられると、餓鬼が泣きながら骸を叩いている。\nそのわけを聞かれると、「なぜ、人間界にいた時に、真剣に聞いてくれなかったのかと、前生の頭の骨を叩いているのです」と泣きながら答えたという。\n『譬喩経』に出てくる話である。\nこれを「餓鬼が寒林に骸を打つ」と言うのだが、これでは「後悔先に立たず」だ。\n今日も忙しい、明日も多忙だと言っていたらキリがない。\n無ければ欲しい、あればあったでなお欲しくなる。\nまだ足らん、まだ足らんという欲には底がないからだ。\n限りある命を持ちながら、限りない欲を満足させてから仏法を聞こうと思っている。\nその心こそ大馬鹿者であり、迷いの親玉なのだ。\n臨終に号泣しても間に合わぬ、今、そのしぶとい心に泣かねばならぬ。\n死んでから骸を打っても手遅れだ。\n只今、聞かん根性を叩いて、弥陀の本願をド真剣に聞くのである。\n\nいつまでもないぞ　この耳この命　あすといわずに　聞けよお六字","href":"/qa/1-37?open=daikatsu&daikatsuId=65","タイトル":"寒林に骸を打つ","本文":"釈尊が林の中を歩いておられると、餓鬼が泣きながら骸を叩いている。\nそのわけを聞かれると、「なぜ、人間界にいた時に、真剣に聞いてくれなかったのかと、前生の頭の骨を叩いているのです」と泣きながら答えたという。\n『譬喩経』に出てくる話である。\nこれを「餓鬼が寒林に骸を打つ」と言うのだが、これでは「後悔先に立たず」だ。\n今日も忙しい、明日も多忙だと言っていたらキリがない。\n無ければ欲しい、あればあったでなお欲しくなる。\nまだ足らん、まだ足らんという欲には底がないからだ。\n限りある命を持ちながら、限りない欲を満足させてから仏法を聞こうと思っている。\nその心こそ大馬鹿者であり、迷いの親玉なのだ。\n臨終に号泣しても間に合わぬ、今、そのしぶとい心に泣かねばならぬ。\n死んでから骸を打っても手遅れだ。\n只今、聞かん根性を叩いて、弥陀の本願をド真剣に聞くのである。\n\nいつまでもないぞ　この耳この命　あすといわずに　聞けよお六字","教学聖典id":"1-37, 1-39, 1-43"},{"id":"66","globalId":"daikatsu:66","sortOrder":"000065","kind":"daikatsu","title":"聞法は自己との闘い","content":"聞法は自己との闘い\n**「仏法には世間の隙を闕きて聞くべし」（御一代記聞書）**\n\n「仏法は世間の仕事をやめて聞け」と言えば\n「そんな無茶苦茶言って、どうやって生活していくのか」と反発する者が多い。\n「では、仕事をして、食べておったら死なぬのか」と反論する。\n\n毎日の交通事故の死亡者は、ほとんどが、仕事のため、レジャーのためか、買い物帰りの人たちである。\n皆、来ない明日を、来ると見込んで、欲で命を落としている。\n一体、人間に生まれてきた目的を何と心得ているのか。\n\n「人生の目的＝信心決定」と知っている者でも、まだまだ死なんと名利を追いかけ、世間や仕事中心の生活をしている。\nそれほど世間が大事なら、世間に後生を助けてもらえばよい。\n土台、後生の一大事を馬鹿にしているのだ。\n\n他人のことではあるまいに、誰の後生だと思っているのか。\n懸命に聞法求道して、乞食になった人など聞いたことがない。\n道心の中に衣食は必ずついてくるのだ。\n\n善知識の仰せが信じられず、世間や仕事をあてにしているから、いつまでたっても、仏法が分からず空回りするのである。\n\n聞法とは自己との闘いである。\nそれはこの世で最も厳しい戦いなのだ。\n\n**たとい大千世界に　満てらん火をもすぎゆきて　仏のみ名を聞く人は　永く不退にかなうなり（親鸞聖人）**","href":"/qa/5-29?open=daikatsu&daikatsuId=66","タイトル":"聞法は自己との闘い","本文":"**「仏法には世間の隙を闕きて聞くべし」（御一代記聞書）**\n\n「仏法は世間の仕事をやめて聞け」と言えば\n「そんな無茶苦茶言って、どうやって生活していくのか」と反発する者が多い。\n「では、仕事をして、食べておったら死なぬのか」と反論する。\n\n毎日の交通事故の死亡者は、ほとんどが、仕事のため、レジャーのためか、買い物帰りの人たちである。\n皆、来ない明日を、来ると見込んで、欲で命を落としている。\n一体、人間に生まれてきた目的を何と心得ているのか。\n\n「人生の目的＝信心決定」と知っている者でも、まだまだ死なんと名利を追いかけ、世間や仕事中心の生活をしている。\nそれほど世間が大事なら、世間に後生を助けてもらえばよい。\n土台、後生の一大事を馬鹿にしているのだ。\n\n他人のことではあるまいに、誰の後生だと思っているのか。\n懸命に聞法求道して、乞食になった人など聞いたことがない。\n道心の中に衣食は必ずついてくるのだ。\n\n善知識の仰せが信じられず、世間や仕事をあてにしているから、いつまでたっても、仏法が分からず空回りするのである。\n\n聞法とは自己との闘いである。\nそれはこの世で最も厳しい戦いなのだ。\n\n**たとい大千世界に　満てらん火をもすぎゆきて　仏のみ名を聞く人は　永く不退にかなうなり（親鸞聖人）**","教学聖典id":"5-31, 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7-6, 2-6, 7-17, 7-22, 7-29"},{"id":"68","globalId":"daikatsu:68","sortOrder":"000067","kind":"daikatsu","title":"平生は「今」しかない","content":"平生は「今」しかない\n**「然れば、平生の一念によりて往生の得否は定まれるものなり。平生のとき不定の念に住せばかなうべからず」（覚如上人）**\n\n親鸞聖人のみ教えは「平生業成」、「現生不退」といわれる。\n現在只今、絶対の幸福に救われる無上の妙法である。\n阿弥陀仏の最高無比の救済にあずかるには真剣な聞法に身を沈める以外にない。\n「生きているとき」と聞くと、七、八十年もの間のように思い、「まだまだ聞ける、いつでも聞ける」と考えがちだが、心得違いも甚だしい。\nもし、今晩死んだら明日は平生でない。\n吸った息が吐けなかったら、吐いた息が吸えなければ、その時から暗黒の後生となる。\n「平生」の二字は、息つく間もない無常の理と隣り合わせなのだ。\n「まだ聞ける」と思う恐ろしい心を叩き、全力で光に向かって進まねばならない。","href":"/qa/1-44?open=daikatsu&daikatsuId=68","タイトル":"平生は「今」しかない","本文":"**「然れば、平生の一念によりて往生の得否は定まれるものなり。平生のとき不定の念に住せばかなうべからず」（覚如上人）**\n\n親鸞聖人のみ教えは「平生業成」、「現生不退」といわれる。\n現在只今、絶対の幸福に救われる無上の妙法である。\n阿弥陀仏の最高無比の救済にあずかるには真剣な聞法に身を沈める以外にない。\n「生きているとき」と聞くと、七、八十年もの間のように思い、「まだまだ聞ける、いつでも聞ける」と考えがちだが、心得違いも甚だしい。\nもし、今晩死んだら明日は平生でない。\n吸った息が吐けなかったら、吐いた息が吸えなければ、その時から暗黒の後生となる。\n「平生」の二字は、息つく間もない無常の理と隣り合わせなのだ。\n「まだ聞ける」と思う恐ろしい心を叩き、全力で光に向かって進まねばならない。","教学聖典id":"4-42, 1-44"},{"id":"7","globalId":"daikatsu:7","sortOrder":"000006","kind":"daikatsu","title":"いつ聞く気か","content":"いつ聞く気か\n「波の音聞かじと思い山篭り苦は品替えて松風の音」子供の世話に時間がかかって参詣できない、孫が学校へ行くようになったら聞こう、などと言っている人がある。\n一生涯、聞法の因縁がないだろう。\n限りない欲をもった人間に暇になる時はない。\n現在求めない人は、永久に求める機会は得られまい。\n多忙なれば多忙のまま、逆境なれば逆境のなか、法を聞かねばならない。\n無常の風は無遠慮にやって来る。\n仕事に追われて育児の暇などない人も、大事と思えば子を育てながら仕事ができる。\n環境に左右されていては、求道は進まない。\n障害を乗り越えていく姿こそ、 **「たとえ大千世界にみてらん火を過ぎゆきて」** の大勇猛心なのだ。\n後生一大事と心に掛ければ、生活即求道となってくるのである。","href":"/qa/5-29?open=daikatsu&daikatsuId=7","タイトル":"いつ聞く気か","本文":"「波の音聞かじと思い山篭り苦は品替えて松風の音」子供の世話に時間がかかって参詣できない、孫が学校へ行くようになったら聞こう、などと言っている人がある。\n一生涯、聞法の因縁がないだろう。\n限りない欲をもった人間に暇になる時はない。\n現在求めない人は、永久に求める機会は得られまい。\n多忙なれば多忙のまま、逆境なれば逆境のなか、法を聞かねばならない。\n無常の風は無遠慮にやって来る。\n仕事に追われて育児の暇などない人も、大事と思えば子を育てながら仕事ができる。\n環境に左右されていては、求道は進まない。\n障害を乗り越えていく姿こそ、 **「たとえ大千世界にみてらん火を過ぎゆきて」** 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