[{"id":"1","globalId":"hitorigoto:1","sortOrder":"000000","kind":"hitorigoto","title":"因果の道理 ","content":"因果の道理 \n**「過去の因を知らんと欲すれば、現在の果を見よ。未来の果を知らんと欲すれば、現在の因を見よ」（因果経）**\n\n世の中を眺めれば、何と不平等なことか。\n長命な人、短命な人、剛健な者、虚弱な者、美しい人、醜い人、賢い人、愚かな人、完全な身体の者、不具の者、善い条件の揃った人、悪い条件の重なった人……等々。\n人間は平等でなければならないと思うのに、なぜ、こんなに差別があるのか。\n全智全能の神がいて、その支配を受けていると考える者が多いのも肯ける。\nしかし一切は、己が心の中に記録した原因が、毎日現われてくるのである。\n善因善果、悪因悪果、自因自果の厳然たる因果の道理に支配されているのだから、己の種まきに恐れ入るよりほかにないのだ。","href":"/qa/1-17?open=hitorigoto&hitorigotoId=1","タイトル":"因果の道理 ","本文":"**「過去の因を知らんと欲すれば、現在の果を見よ。未来の果を知らんと欲すれば、現在の因を見よ」（因果経）**\n\n世の中を眺めれば、何と不平等なことか。\n長命な人、短命な人、剛健な者、虚弱な者、美しい人、醜い人、賢い人、愚かな人、完全な身体の者、不具の者、善い条件の揃った人、悪い条件の重なった人……等々。\n人間は平等でなければならないと思うのに、なぜ、こんなに差別があるのか。\n全智全能の神がいて、その支配を受けていると考える者が多いのも肯ける。\nしかし一切は、己が心の中に記録した原因が、毎日現われてくるのである。\n善因善果、悪因悪果、自因自果の厳然たる因果の道理に支配されているのだから、己の種まきに恐れ入るよりほかにないのだ。","教学聖典id":"1-21, 1-17"},{"id":"10","globalId":"hitorigoto:10","sortOrder":"000009","kind":"hitorigoto","title":"人生の目的（有難い）","content":"人生の目的（有難い）\n**「人身受け難し、今已に受く。仏法聞き難し、今已に聞く。この身今生に向って度せず んば、さらにいずれの生に 向ってかこの身を度せん」（釈尊）**\n\n釈尊が弟子達にこう尋ねられたことがある。\n〝たとえば大海の底に盲亀がいて、100年に1度海面に浮び上る。海面には真中に穴のある丸太棒が一本浮遊している。100年に1度のチャンスに、丁度、浮木の穴に盲亀が頭をひょこっと出すことがあろうか〟\n\n〝さようなことは考えられません〟 側近の阿難が答える。\n\n〝絶対、無いか〟 \n\n〝絶対とは申しかねますが…〟 と口を濁すと釈尊は仰有った。\n\n〝盲亀が浮木の穴から頭を出すことは、限りなき歳月のうちには全く無いとは言い切れぬしかし、人間に生れることは更に有ることの難い、有難いことなのだよ〟\nと、人生の目的の如何に崇高で尊厳なことを教えられた。","href":"/qa/1-50?open=hitorigoto&hitorigotoId=10","タイトル":"人生の目的（有難い）","本文":"**「人身受け難し、今已に受く。仏法聞き難し、今已に聞く。この身今生に向って度せず んば、さらにいずれの生に 向ってかこの身を度せん」（釈尊）**\n\n釈尊が弟子達にこう尋ねられたことがある。\n〝たとえば大海の底に盲亀がいて、100年に1度海面に浮び上る。海面には真中に穴のある丸太棒が一本浮遊している。100年に1度のチャンスに、丁度、浮木の穴に盲亀が頭をひょこっと出すことがあろうか〟\n\n〝さようなことは考えられません〟 側近の阿難が答える。\n\n〝絶対、無いか〟 \n\n〝絶対とは申しかねますが…〟 と口を濁すと釈尊は仰有った。\n\n〝盲亀が浮木の穴から頭を出すことは、限りなき歳月のうちには全く無いとは言い切れぬしかし、人間に生れることは更に有ることの難い、有難いことなのだよ〟\nと、人生の目的の如何に崇高で尊厳なことを教えられた。","教学聖典id":"1-50"},{"id":"100","globalId":"hitorigoto:100","sortOrder":"000097","kind":"hitorigoto","title":"仏恩報謝","content":"仏恩報謝\n**「弥陀の名号となえつつ信心まことにうる人は憶念の心つねにして仏恩報ずるおもいあり」（浄土和讃）**\n\n逆謗の屍が調熟の光明に照育され、罪悪観と無常観で真剣になり三定死で、聞いたも知ったも覚えたも、学問も修養も念仏も間に合わず、言うも言わざるも罪、思うも思わざるも罪。\n\n**\"いずれの行も及び難き身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし\"**\nと、往生の望みが切れた時と摂取不捨の大益に生かされた時は同時であって\n\n**\"不可称不可説不可思議の信楽\"**\n**\"広大難思の慶心\"**\n**\"五劫思惟の願は親鸞一人が為なり\"**\n**\"唯、仏恩の深重なることを念じて、人倫の哢言を恥じず\"**\n**\"如来大悲の恩徳は、身を粉にしても報ずべし、師主知識の恩徳も、骨を砕きても謝すべし\"**\n\nねてもさめても、微塵の報謝も出来ぬ身に泣かされるのである。","href":"/qa/2-35?open=hitorigoto&hitorigotoId=100","タイトル":"仏恩報謝","本文":"**「弥陀の名号となえつつ信心まことにうる人は憶念の心つねにして仏恩報ずるおもいあり」（浄土和讃）**\n\n逆謗の屍が調熟の光明に照育され、罪悪観と無常観で真剣になり三定死で、聞いたも知ったも覚えたも、学問も修養も念仏も間に合わず、言うも言わざるも罪、思うも思わざるも罪。\n\n**\"いずれの行も及び難き身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし\"**\nと、往生の望みが切れた時と摂取不捨の大益に生かされた時は同時であって\n\n**\"不可称不可説不可思議の信楽\"**\n**\"広大難思の慶心\"**\n**\"五劫思惟の願は親鸞一人が為なり\"**\n**\"唯、仏恩の深重なることを念じて、人倫の哢言を恥じず\"**\n**\"如来大悲の恩徳は、身を粉にしても報ずべし、師主知識の恩徳も、骨を砕きても謝すべし\"**\n\nねてもさめても、微塵の報謝も出来ぬ身に泣かされるのである。","教学聖典id":"2-35, 3-10, 2-36, 6-16, 6-15"},{"id":"101","globalId":"hitorigoto:101","sortOrder":"000098","kind":"hitorigoto","title":"阿弥陀","content":"阿弥陀\n** “しかれば阿弥陀如来は久遠実成の覚体、無始本有の極理なり。迷悟染浄一切の万法ことごとく阿弥陀の三字に摂在せずということなし”（顕名鈔）**\n\n三世十方を貫く真理が阿弥陀の三字。\n三世を貫く寿命無量の慈悲は“いつでも救う”時間的無限であり、十方を遍く光明無量の智恵は“どこでも救う”空間的無辺の真理である。\n“いつでも、どこでも救う”阿弥陀如来の相手は誰か。\n“オレのことはオレが一番知っている”と皆思っているが、天人は水をルリと見、人間は水と見る。\n魚は住家と見、餓鬼は炎と見る一水四見の譬のように、法律的道徳的に夫々見方が違う。\n仏法の鏡に接近し、阿弥陀佛の無量の光明に照破されれば、“言うも言わざるも罪、思うも思わざるも罪”十方衆生は逆謗の屍と徹見される。\n同時に寿命無量の慈悲に摂取された時が平生業成の救いである。","href":"/qa/2-8?open=hitorigoto&hitorigotoId=101","タイトル":"阿弥陀","本文":"** “しかれば阿弥陀如来は久遠実成の覚体、無始本有の極理なり。迷悟染浄一切の万法ことごとく阿弥陀の三字に摂在せずということなし”（顕名鈔）**\n\n三世十方を貫く真理が阿弥陀の三字。\n三世を貫く寿命無量の慈悲は“いつでも救う”時間的無限であり、十方を遍く光明無量の智恵は“どこでも救う”空間的無辺の真理である。\n“いつでも、どこでも救う”阿弥陀如来の相手は誰か。\n“オレのことはオレが一番知っている”と皆思っているが、天人は水をルリと見、人間は水と見る。\n魚は住家と見、餓鬼は炎と見る一水四見の譬のように、法律的道徳的に夫々見方が違う。\n仏法の鏡に接近し、阿弥陀佛の無量の光明に照破されれば、“言うも言わざるも罪、思うも思わざるも罪”十方衆生は逆謗の屍と徹見される。\n同時に寿命無量の慈悲に摂取された時が平生業成の救いである。","教学聖典id":"2-8, 8-19"},{"id":"102","globalId":"hitorigoto:102","sortOrder":"000099","kind":"hitorigoto","title":"外道","content":"外道\n**「更に親鸞珍らしき法をも弘めず、如来の教法を、われも信じ人にも教え聞かしむるばかりなり」（親鸞聖人）**\n\n**「聖人一流の御勧化の趣は、信心をもって本とせられ候。その故はもろもろの雑行をなげすてて、一心に弥陀に帰命すれば、不可思議の願力として、仏の方より往生は治定せしめたもう。その位を一念発起・入正定之聚とも釈し、その上の称名念仏は、如来わが往生を定めたまいし御恩報尽の念仏と心得べきなり」（蓮如上人）**\n\n\"親鸞聖人や蓮如上人の教えを、いくら聞いていても信心獲得はできん\"\nと広言する者がいる。\nこれこそ、あさましき外道の暴言であり、永く無間地獄に堕在するであろう。\nわれら親鸞学徒は、更に珍らしき法を説かず、親鸞聖人や蓮如上人の教法を、我も信じ、ひたすらお伝えするばかりである。","href":"/qa/1-12?open=hitorigoto&hitorigotoId=102","タイトル":"外道","本文":"**「更に親鸞珍らしき法をも弘めず、如来の教法を、われも信じ人にも教え聞かしむるばかりなり」（親鸞聖人）**\n\n**「聖人一流の御勧化の趣は、信心をもって本とせられ候。その故はもろもろの雑行をなげすてて、一心に弥陀に帰命すれば、不可思議の願力として、仏の方より往生は治定せしめたもう。その位を一念発起・入正定之聚とも釈し、その上の称名念仏は、如来わが往生を定めたまいし御恩報尽の念仏と心得べきなり」（蓮如上人）**\n\n\"親鸞聖人や蓮如上人の教えを、いくら聞いていても信心獲得はできん\"\nと広言する者がいる。\nこれこそ、あさましき外道の暴言であり、永く無間地獄に堕在するであろう。\nわれら親鸞学徒は、更に珍らしき法を説かず、親鸞聖人や蓮如上人の教法を、我も信じ、ひたすらお伝えするばかりである。","教学聖典id":"1-12, 8-37, 6-35"},{"id":"103","globalId":"hitorigoto:103","sortOrder":"000100","kind":"hitorigoto","title":"飽きず","content":"飽きず\n**「愚禿、勧むるところ更に私なし。しかるに、一向専念の義は往生の肝腑、自宗の骨目なり」（親鸞聖人）**\n\n**「善知識の能というは、一心一向に弥陀に帰命したてまつるべし、と人を勧むべきばかりなり」（蓮如上人）**\n\n「諸経に讃ずる所、多く弥陀に在り」（天台の荊溪）\n\n\"いつ聞いても変らない、同じことを何十年、よくも飽きずに話せるものだ\"\n私の話に呆れる人もいるけれど、話しの度にクルクルと、めざす方向が変っては、聞かされる者は戸惑うだけ。\n同じ方角で同じことを、飽きずに話せることが有難い。\n八万四千の法門を説かれた釈尊も、六三法門を開顕なされた聖人も、向う処は唯一つ、一向専念の真実だった。\n何十年、話し続ける私も、いかに方便から真実に、誘導させられているのか。\n他に話したことはないのだ。","href":"/qa/5-45?open=hitorigoto&hitorigotoId=103","タイトル":"飽きず","本文":"**「愚禿、勧むるところ更に私なし。しかるに、一向専念の義は往生の肝腑、自宗の骨目なり」（親鸞聖人）**\n\n**「善知識の能というは、一心一向に弥陀に帰命したてまつるべし、と人を勧むべきばかりなり」（蓮如上人）**\n\n「諸経に讃ずる所、多く弥陀に在り」（天台の荊溪）\n\n\"いつ聞いても変らない、同じことを何十年、よくも飽きずに話せるものだ\"\n私の話に呆れる人もいるけれど、話しの度にクルクルと、めざす方向が変っては、聞かされる者は戸惑うだけ。\n同じ方角で同じことを、飽きずに話せることが有難い。\n八万四千の法門を説かれた釈尊も、六三法門を開顕なされた聖人も、向う処は唯一つ、一向専念の真実だった。\n何十年、話し続ける私も、いかに方便から真実に、誘導させられているのか。\n他に話したことはないのだ。","教学聖典id":"6-38, 5-45"},{"id":"11","globalId":"hitorigoto:11","sortOrder":"000010","kind":"hitorigoto","title":"出世の本懐","content":"出世の本懐\n**「天上天下、唯我独尊、三界皆苦、吾当安此」（釈尊）**\n\n“天上にも地上にも、人間（我）のみの独尊あり”\n他の動物には、因果の道理を弁えることも、無上仏の本願を聞くこともできぬ。\n人間のみ、仏法を聞くことができるから、人命が尊いのである。\n\n“人生（三界）はみな苦なり”\n地震、雷、火事、洪水、噴火、境界争い、裁判沙汰、交通事故、嫌な人間関係など衆苦充満しているから三界の獄ともいい、人生は四苦八苦ともいわれる。\n悩み絶えなく終る一生なら哀れというも愚なり、である。\n\n“吾（釈尊）当に此に安んずべし”\nその苦しみの中にありながら安らかな楽しい世界がある。一切の人々は、この無碍の世界に出る為に生れてきたのだ。\n万人共通唯一の、出世の本懐を教示なされた釈尊のご金言である。","href":"/qa/1-50?open=hitorigoto&hitorigotoId=11","タイトル":"出世の本懐","本文":"**「天上天下、唯我独尊、三界皆苦、吾当安此」（釈尊）**\n\n“天上にも地上にも、人間（我）のみの独尊あり”\n他の動物には、因果の道理を弁えることも、無上仏の本願を聞くこともできぬ。\n人間のみ、仏法を聞くことができるから、人命が尊いのである。\n\n“人生（三界）はみな苦なり”\n地震、雷、火事、洪水、噴火、境界争い、裁判沙汰、交通事故、嫌な人間関係など衆苦充満しているから三界の獄ともいい、人生は四苦八苦ともいわれる。\n悩み絶えなく終る一生なら哀れというも愚なり、である。\n\n“吾（釈尊）当に此に安んずべし”\nその苦しみの中にありながら安らかな楽しい世界がある。一切の人々は、この無碍の世界に出る為に生れてきたのだ。\n万人共通唯一の、出世の本懐を教示なされた釈尊のご金言である。","教学聖典id":"1-50"},{"id":"12","globalId":"hitorigoto:12","sortOrder":"000011","kind":"hitorigoto","title":"偏執者","content":"偏執者\n**「如来所以興出世　唯説弥陀本願海」（親鸞聖人）**\n\n**「その他には、何れの法を信ずというとも、後生の助かるという事、ゆめゆめあるべからず」（蓮如上人）**\n\n〝全人類の救われる教法は、世界に宗教多しと雖も、阿弥陀仏の本願以外には絶対にないのである。\nだからこそ大聖釈尊は、万川が海に終帰するが如き、阿弥陀仏のご本願、唯一を説かれたのだ〟\n\nと、両聖人は言い切られている。\n仏法者は、仏教以外の宗教を総括的に外道邪教と否定する。\n或は異学、異見、別解別行と排撃する。\n真実がより徹底すればする程、仏法者は、排他的偏執者と世間から思われるものである。","href":"/qa/2-4?open=hitorigoto&hitorigotoId=12","タイトル":"偏執者","本文":"**「如来所以興出世　唯説弥陀本願海」（親鸞聖人）**\n\n**「その他には、何れの法を信ずというとも、後生の助かるという事、ゆめゆめあるべからず」（蓮如上人）**\n\n〝全人類の救われる教法は、世界に宗教多しと雖も、阿弥陀仏の本願以外には絶対にないのである。\nだからこそ大聖釈尊は、万川が海に終帰するが如き、阿弥陀仏のご本願、唯一を説かれたのだ〟\n\nと、両聖人は言い切られている。\n仏法者は、仏教以外の宗教を総括的に外道邪教と否定する。\n或は異学、異見、別解別行と排撃する。\n真実がより徹底すればする程、仏法者は、排他的偏執者と世間から思われるものである。","教学聖典id":"2-4, 6-39"},{"id":"13","globalId":"hitorigoto:13","sortOrder":"000012","kind":"hitorigoto","title":"釈尊の本懐","content":"釈尊の本懐\n**「如来所以興出世　唯説弥陀本願海」（正信偈）**\n\n釈尊が自内証を開説されたのが華厳経。\n文殊と普賢は聞けたが、大衆は如聾如唖だった。\nそこで程度を低めて、阿含、方等、般若経と、四十余年根機を整えて釈尊は、自力の本懐経の法華経を説かれるのであった。\nところがその真最中、かの王舎城の悲劇のヒロイン韋提希の、悲泣の要請を受けられた釈尊は、岸辺に戯れる子供より、濁流に溺れている子供を救う阿弥陀佛の本願こそ、わが出世の本懐中の本懐ではないかと、決然と法華の説法を中断なされ、王宮に降臨して説かれたのが観無量寿経である。\nかくて、十方衆生を観無量寿経で統合し、阿弥陀経に導き、遂には、他力の本懐経たる大無量寿経の弥陀の本願海を、釈尊は唯説されたのである。","href":"/qa/2-4?open=hitorigoto&hitorigotoId=13","タイトル":"釈尊の本懐","本文":"**「如来所以興出世　唯説弥陀本願海」（正信偈）**\n\n釈尊が自内証を開説されたのが華厳経。\n文殊と普賢は聞けたが、大衆は如聾如唖だった。\nそこで程度を低めて、阿含、方等、般若経と、四十余年根機を整えて釈尊は、自力の本懐経の法華経を説かれるのであった。\nところがその真最中、かの王舎城の悲劇のヒロイン韋提希の、悲泣の要請を受けられた釈尊は、岸辺に戯れる子供より、濁流に溺れている子供を救う阿弥陀佛の本願こそ、わが出世の本懐中の本懐ではないかと、決然と法華の説法を中断なされ、王宮に降臨して説かれたのが観無量寿経である。\nかくて、十方衆生を観無量寿経で統合し、阿弥陀経に導き、遂には、他力の本懐経たる大無量寿経の弥陀の本願海を、釈尊は唯説されたのである。","教学聖典id":"2-4"},{"id":"14","globalId":"hitorigoto:14","sortOrder":"000013","kind":"hitorigoto","title":"本懐の中の本懐","content":"本懐の中の本懐\n**「是に於て世尊、阿難に告げて曰く、『云何ぞ阿難、諸天の汝を教えて来して佛に問わしむるや。自ら慧見を以て威顔を問えるや』と。阿難、仏に白さく、『諸天の来りて我に教うる者あることなし。自ら所見を以て斯の義を問いたてまつるのみ』と。仏言く、『善い哉、阿難、問える所甚だ快し。深き智慧を発し、真妙の辯才をもって、衆生を愍念せんとして、斯の慧義を問えり。如来、無蓋の大悲を以て三界を矜哀す。世に出興する所以は、道教を光闡し群萌を拯い恵むに真実の利を以てせんと欲してなり』」（大無量寿経）**\n\n出世本懐中の本懐である『大無量寿経』を説かれる時、釈尊は「五徳瑞現」して阿難尊者らを驚かせ、一切経を説いて一切衆生を養育し、最後に弥陀の名号の大功徳を与え、真実の利益を届けん、と宣言なされている。\nこの釈尊の真意を開顕されたのが親鸞聖人の三願転入のみ教えである。","href":"/qa/2-7?open=hitorigoto&hitorigotoId=14","タイトル":"本懐の中の本懐","本文":"**「是に於て世尊、阿難に告げて曰く、『云何ぞ阿難、諸天の汝を教えて来して佛に問わしむるや。自ら慧見を以て威顔を問えるや』と。阿難、仏に白さく、『諸天の来りて我に教うる者あることなし。自ら所見を以て斯の義を問いたてまつるのみ』と。仏言く、『善い哉、阿難、問える所甚だ快し。深き智慧を発し、真妙の辯才をもって、衆生を愍念せんとして、斯の慧義を問えり。如来、無蓋の大悲を以て三界を矜哀す。世に出興する所以は、道教を光闡し群萌を拯い恵むに真実の利を以てせんと欲してなり』」（大無量寿経）**\n\n出世本懐中の本懐である『大無量寿経』を説かれる時、釈尊は「五徳瑞現」して阿難尊者らを驚かせ、一切経を説いて一切衆生を養育し、最後に弥陀の名号の大功徳を与え、真実の利益を届けん、と宣言なされている。\nこの釈尊の真意を開顕されたのが親鸞聖人の三願転入のみ教えである。","教学聖典id":"2-7, 7-17"},{"id":"15","globalId":"hitorigoto:15","sortOrder":"000014","kind":"hitorigoto","title":"方便","content":"方便\n「仏について二種の法身まします。一には法性法身と申す、二には方便法身と申す。法性法身と申すは、色もなし形もましまさず、然れば心もおよばず語もたえたり。この一如より形をあらわして方便法身と申す、その御相に法蔵比丘となのりたまいて、不可思議の四十八願を発しあらわし給うなり」（唯信鈔文意）**\n\n無上仏は法性法身といって色も形もない宇宙の真理。\nそれでは我々の認識にのらないから、形を現わして方便法身となり、右の手を挙げて、十方衆生を招喚する、光明無量の智恵を顕示し、左の手を下げて三世を貫いて堕としはせぬぞの、寿命無量の慈悲を現わす。\nまこと真実の仏さまは見えないから、見えるようにニセて現われたのが方便法身である。\nないものをあるように言うのは「ウソモノ」で論外だが「ニセモノ」より「ホンモノ」へ、方便からしか真実へ入れないのだ。","href":"/qa/2-8?open=hitorigoto&hitorigotoId=15","タイトル":"方便","本文":"「仏について二種の法身まします。一には法性法身と申す、二には方便法身と申す。法性法身と申すは、色もなし形もましまさず、然れば心もおよばず語もたえたり。この一如より形をあらわして方便法身と申す、その御相に法蔵比丘となのりたまいて、不可思議の四十八願を発しあらわし給うなり」（唯信鈔文意）**\n\n無上仏は法性法身といって色も形もない宇宙の真理。\nそれでは我々の認識にのらないから、形を現わして方便法身となり、右の手を挙げて、十方衆生を招喚する、光明無量の智恵を顕示し、左の手を下げて三世を貫いて堕としはせぬぞの、寿命無量の慈悲を現わす。\nまこと真実の仏さまは見えないから、見えるようにニセて現われたのが方便法身である。\nないものをあるように言うのは「ウソモノ」で論外だが「ニセモノ」より「ホンモノ」へ、方便からしか真実へ入れないのだ。","教学聖典id":"2-8, 2-14"},{"id":"16","globalId":"hitorigoto:16","sortOrder":"000015","kind":"hitorigoto","title":"光明徧照","content":"光明徧照\n**「光明徧照 十方世界 念仏衆生 摂取不捨」（観無量寿経）**\n\n阿弥陀仏の光明について、釈尊が教えられたものだが、“光明、徧く十方世界の念仏の衆生を照らして摂取して捨てず“と読めば、十方世界の念仏の衆生を摂取するのが、弥陀の光明となる。\n“光明、徧く十方世界を照らし、念仏の衆生を摂取して、捨てず”と拝すれば、十方世界の衆生を徧く、念仏の衆生となるまで照育し、摂取する弥陀の光明となる。\nそれらの仏意を聖人は、こう述べておられる。\n\n**“十方微塵世界の 念仏の衆生をみそなわし摂取して捨てざれば 阿弥陀と名けたてまつる“（浄土和讃）**","href":"/qa/8-19?open=hitorigoto&hitorigotoId=16","タイトル":"光明徧照","本文":"**「光明徧照 十方世界 念仏衆生 摂取不捨」（観無量寿経）**\n\n阿弥陀仏の光明について、釈尊が教えられたものだが、“光明、徧く十方世界の念仏の衆生を照らして摂取して捨てず“と読めば、十方世界の念仏の衆生を摂取するのが、弥陀の光明となる。\n“光明、徧く十方世界を照らし、念仏の衆生を摂取して、捨てず”と拝すれば、十方世界の衆生を徧く、念仏の衆生となるまで照育し、摂取する弥陀の光明となる。\nそれらの仏意を聖人は、こう述べておられる。\n\n**“十方微塵世界の 念仏の衆生をみそなわし摂取して捨てざれば 阿弥陀と名けたてまつる“（浄土和讃）**","教学聖典id":"8-19"},{"id":"17","globalId":"hitorigoto:17","sortOrder":"000016","kind":"hitorigoto","title":"重誓偈","content":"重誓偈\n**「我超世の願を建つ、必ず無上道に至らん。斯願満足せずば、誓いて正覚を成ぜじ。我無量劫に於て大施主となりて、普く諸の貧窮を済わずは、誓いて正覚を成ぜじ。我佛道を成ずるに至りて、名声十方に超えん、究竟して聞ゆる所なくば、誓いて正覚を成ぜじ」（大無量寿経上巻）**\n\nすでに四十八願に誓われた無上仏であるが、“十方衆生の為に法蔵を開いて功徳の宝を施し、すべての貧窮を救わん”と、重ねて誓われているから『重誓偈』といわれる。\nだが、私が受け取らねば空しい功徳になってしまう。\nその受け取り方が『下巻』に説かれている。\n我々が修行するのでもなく、戒行を保つのでもない。\n聞く一つで信受させて頂くのである。\n仏智が満入して大満足すれば、五悪を慎み五善を励まずにおれなくなる意を顕わされたのが、次の『五悪段』の教えである。","href":"/qa/4-26?open=hitorigoto&hitorigotoId=17","タイトル":"重誓偈","本文":"**「我超世の願を建つ、必ず無上道に至らん。斯願満足せずば、誓いて正覚を成ぜじ。我無量劫に於て大施主となりて、普く諸の貧窮を済わずは、誓いて正覚を成ぜじ。我佛道を成ずるに至りて、名声十方に超えん、究竟して聞ゆる所なくば、誓いて正覚を成ぜじ」（大無量寿経上巻）**\n\nすでに四十八願に誓われた無上仏であるが、“十方衆生の為に法蔵を開いて功徳の宝を施し、すべての貧窮を救わん”と、重ねて誓われているから『重誓偈』といわれる。\nだが、私が受け取らねば空しい功徳になってしまう。\nその受け取り方が『下巻』に説かれている。\n我々が修行するのでもなく、戒行を保つのでもない。\n聞く一つで信受させて頂くのである。\n仏智が満入して大満足すれば、五悪を慎み五善を励まずにおれなくなる意を顕わされたのが、次の『五悪段』の教えである。","教学聖典id":"4-26"},{"id":"18","globalId":"hitorigoto:18","sortOrder":"000017","kind":"hitorigoto","title":"呼び声（権威）","content":"呼び声（権威）\n**「汝一心正念に来れ、我能く汝を護らん。衆て、水火の難に堕せんことを畏れざれ」（二河白道の譬）**\n\n**「阿弥陀如来の仰せられけるやうは、末代の凡夫、罪業の我等たらん者、罪はいかほど深くとも、我を一心にたのまん衆生をば、必ず救うべし、と仰せられたり」（御文章四帖目）**\n\n造悪の心が止まないと言えば、止まない心と知っているから任せてくれ。\n真剣に聞けぬと言えば、真剣に聞かぬ心と分っているから助かってくれ。\n信じられぬと言えば、信じられぬ心も承知しているから任せておくれ。\nこんなたまげた底なしの大慈悲にあうては、もはやなんともしようがない。\nもちもさげもならぬ己の心に、もてあましているのですから好きなようにして下さい。\n堕ちても上っても一切文句は申しません。\n浮くも沈むも南無阿弥陀仏、泣くも笑うも南無阿弥陀仏。\nあら心得易の南無阿弥陀仏。","href":"/qa/6-6?open=hitorigoto&hitorigotoId=18","タイトル":"呼び声（権威）","本文":"**「汝一心正念に来れ、我能く汝を護らん。衆て、水火の難に堕せんことを畏れざれ」（二河白道の譬）**\n\n**「阿弥陀如来の仰せられけるやうは、末代の凡夫、罪業の我等たらん者、罪はいかほど深くとも、我を一心にたのまん衆生をば、必ず救うべし、と仰せられたり」（御文章四帖目）**\n\n造悪の心が止まないと言えば、止まない心と知っているから任せてくれ。\n真剣に聞けぬと言えば、真剣に聞かぬ心と分っているから助かってくれ。\n信じられぬと言えば、信じられぬ心も承知しているから任せておくれ。\nこんなたまげた底なしの大慈悲にあうては、もはやなんともしようがない。\nもちもさげもならぬ己の心に、もてあましているのですから好きなようにして下さい。\n堕ちても上っても一切文句は申しません。\n浮くも沈むも南無阿弥陀仏、泣くも笑うも南無阿弥陀仏。\nあら心得易の南無阿弥陀仏。","教学聖典id":"6-6, 8-21"},{"id":"19","globalId":"hitorigoto:19","sortOrder":"000018","kind":"hitorigoto","title":"阿弥陀仏の相手","content":"阿弥陀仏の相手\n**「是の如く我聞く。一時、仏、舎衛国の祇樹給孤独園に在して、大比丘衆千二百五十人と倶なりき。皆是れ大阿羅漢にして衆に知識せらる。長老舎利弗・摩訶目犍連(もくけんれん)・摩訶迦葉(かしょう)・摩訶迦旃延(かせんえん)・摩訶倶絺羅(くちら)・離婆多(りはだ)・周利槃陀伽・難陀・阿難陀・羅睺羅(らごら)・憍梵波提(きょうぼんはだい)・賓頭盧頗羅堕(びんずるはらだ)・迦留陀夷・摩訶劫賓那(こうひんな)・薄拘羅(はくら)・阿㝹樓駄(あのろだ)・是の如き等の大弟子。並に諸の菩薩摩訶薩の、文殊師利法王子・阿逸多菩薩・乾陀訶提菩薩・常精進菩薩・是の如き等の諸の大菩薩。及び、釈提桓因等の無量の諸天大衆と倶なりき」（仏説阿弥陀経）**\n\n経典には相手がある。\n小乗経典は声聞のみ。\n華厳経は菩薩のみ。\n法華経でも声聞、縁覚、菩薩の三乗だけである。\n対して阿弥陀経は声聞、縁覚、大菩薩だけでなく、諸天、大衆の五乗が入っている。\n十方衆生相手の誓願の証である。","href":"/qa/2-17?open=hitorigoto&hitorigotoId=19","タイトル":"阿弥陀仏の相手","本文":"**「是の如く我聞く。一時、仏、舎衛国の祇樹給孤独園に在して、大比丘衆千二百五十人と倶なりき。皆是れ大阿羅漢にして衆に知識せらる。長老舎利弗・摩訶目犍連(もくけんれん)・摩訶迦葉(かしょう)・摩訶迦旃延(かせんえん)・摩訶倶絺羅(くちら)・離婆多(りはだ)・周利槃陀伽・難陀・阿難陀・羅睺羅(らごら)・憍梵波提(きょうぼんはだい)・賓頭盧頗羅堕(びんずるはらだ)・迦留陀夷・摩訶劫賓那(こうひんな)・薄拘羅(はくら)・阿㝹樓駄(あのろだ)・是の如き等の大弟子。並に諸の菩薩摩訶薩の、文殊師利法王子・阿逸多菩薩・乾陀訶提菩薩・常精進菩薩・是の如き等の諸の大菩薩。及び、釈提桓因等の無量の諸天大衆と倶なりき」（仏説阿弥陀経）**\n\n経典には相手がある。\n小乗経典は声聞のみ。\n華厳経は菩薩のみ。\n法華経でも声聞、縁覚、菩薩の三乗だけである。\n対して阿弥陀経は声聞、縁覚、大菩薩だけでなく、諸天、大衆の五乗が入っている。\n十方衆生相手の誓願の証である。","教学聖典id":"2-17"},{"id":"2","globalId":"hitorigoto:2","sortOrder":"000001","kind":"hitorigoto","title":"先祖","content":"先祖\n**「心常念悪（心常に悪を念い）**\n　**口常言悪（口常に悪を言い）**\n　**身常行悪（身常に悪を行う）**\n　**曾無一善（曾つて一善も無し）」**\n**（大無量寿経）**\n\n人間の実相を喝破なされた釈尊のお言葉である。\n三十代さかのぼった我々の先祖の数は、地球上の全人類に匹敵する。\nこれらの中には、善人もいたろうが、石川五衛門のような悪人もあったろう。\n倫理や道徳から言っても、先祖がすべて尊敬の対象になる筈がないのだ。\nましてや、微塵の悪も見逃さぬ仏眼から見た先祖においてをや、である。","href":"/qa/1-26?open=hitorigoto&hitorigotoId=2","タイトル":"先祖","本文":"**「心常念悪（心常に悪を念い）**\n　**口常言悪（口常に悪を言い）**\n　**身常行悪（身常に悪を行う）**\n　**曾無一善（曾つて一善も無し）」**\n**（大無量寿経）**\n\n人間の実相を喝破なされた釈尊のお言葉である。\n三十代さかのぼった我々の先祖の数は、地球上の全人類に匹敵する。\nこれらの中には、善人もいたろうが、石川五衛門のような悪人もあったろう。\n倫理や道徳から言っても、先祖がすべて尊敬の対象になる筈がないのだ。\nましてや、微塵の悪も見逃さぬ仏眼から見た先祖においてをや、である。","教学聖典id":"1-26, 2-28"},{"id":"20","globalId":"hitorigoto:20","sortOrder":"000019","kind":"hitorigoto","title":"願成就文","content":"願成就文\n**「諸有衆生 聞其名号 信心歓喜 乃至一念 至心回向 願生彼国 即得往生 住不退転 唯除五逆 誹謗正法」（釈尊）**\n\n**「横超とは即ち願成就一実円満之真教真宗是れなり」（親鸞聖人）**\n\n**「それについて三経の安心あり、その中に大経をもって真実とせらる。大経の中には第十八の願をもって本とす。十八の願にとりてはまた願成就をもって至極とす」（覚如上人）**\n\n**「かの心行を獲得せんこと念仏往生の願成就の『信心歓喜乃至一念』等の文をもって依憑とす。このほか未だ聞かず」（覚如上人）**\n\n親鸞聖人より如信（聖人の孫）、その如信上人より面授口决された覚如上人の〝このほか未だ聞かず〟は強烈だ。 \n『教行信証信巻』上下始終は願成就文の開顕であり、その真理は正に濁流滔々たる現代教界の最高批判である。","href":"/qa/3-32?open=hitorigoto&hitorigotoId=20","タイトル":"願成就文","本文":"**「諸有衆生 聞其名号 信心歓喜 乃至一念 至心回向 願生彼国 即得往生 住不退転 唯除五逆 誹謗正法」（釈尊）**\n\n**「横超とは即ち願成就一実円満之真教真宗是れなり」（親鸞聖人）**\n\n**「それについて三経の安心あり、その中に大経をもって真実とせらる。大経の中には第十八の願をもって本とす。十八の願にとりてはまた願成就をもって至極とす」（覚如上人）**\n\n**「かの心行を獲得せんこと念仏往生の願成就の『信心歓喜乃至一念』等の文をもって依憑とす。このほか未だ聞かず」（覚如上人）**\n\n親鸞聖人より如信（聖人の孫）、その如信上人より面授口决された覚如上人の〝このほか未だ聞かず〟は強烈だ。 \n『教行信証信巻』上下始終は願成就文の開顕であり、その真理は正に濁流滔々たる現代教界の最高批判である。","教学聖典id":"3-32, 3-34, 4-5"},{"id":"21","globalId":"hitorigoto:21","sortOrder":"000020","kind":"hitorigoto","title":"名号","content":"名号\n**「諸有の衆生、その名号を聞きて、信心歓喜せんこと乃至一念せん…乃至…誹謗せんとをば除かん」（十八願成就文）**\n\n\"そのカバンをくれ\"\n\"その菓子が欲しい\"\nと言うように、\"その\"とは確かにそこにあるものを指す言葉である。\n\n\"その名号\"とは、何か。\n十八願成就の前にある十七願成就文の、十方諸仏の絶讃する功徳不可思議の、弥陀の名号のことである。\n南無阿弥陀仏の不可思議の功徳は、この釈迦も実証済み。\n\n**「我この利を見るが故に、この言を説く」（阿弥陀経）**\nと喝破されている。\n\n**「南無阿弥陀仏と申す文字はその数わずかに六字なればさのみ功能のあるべきとも覚えざるに、この六字の名号の中には無上甚深の功徳利益の広大なること、更にその極まりなきものなり」（御文章）**\n\n**「本願の名号は正定の業なり」（正信偈）**\n\n弥陀の名号は、極悪最下の我らを正定聚不退の身にする威神力なのだ。","href":"/qa/3-32?open=hitorigoto&hitorigotoId=21","タイトル":"名号","本文":"**「諸有の衆生、その名号を聞きて、信心歓喜せんこと乃至一念せん…乃至…誹謗せんとをば除かん」（十八願成就文）**\n\n\"そのカバンをくれ\"\n\"その菓子が欲しい\"\nと言うように、\"その\"とは確かにそこにあるものを指す言葉である。\n\n\"その名号\"とは、何か。\n十八願成就の前にある十七願成就文の、十方諸仏の絶讃する功徳不可思議の、弥陀の名号のことである。\n南無阿弥陀仏の不可思議の功徳は、この釈迦も実証済み。\n\n**「我この利を見るが故に、この言を説く」（阿弥陀経）**\nと喝破されている。\n\n**「南無阿弥陀仏と申す文字はその数わずかに六字なればさのみ功能のあるべきとも覚えざるに、この六字の名号の中には無上甚深の功徳利益の広大なること、更にその極まりなきものなり」（御文章）**\n\n**「本願の名号は正定の業なり」（正信偈）**\n\n弥陀の名号は、極悪最下の我らを正定聚不退の身にする威神力なのだ。","教学聖典id":"3-32, 3-37, 3-42"},{"id":"22","globalId":"hitorigoto:22","sortOrder":"000021","kind":"hitorigoto","title":"弥陀の志願","content":"弥陀の志願\n**「無碍光如来の名号と かの光明智相とは無明長夜の闇を破し 衆生の志願をみてたまう」（高僧和讃）**\n\n“阿弥陀如来の名号と光明には、迷いの根源である無明の闇を破り、衆生の志願を満足させる力があるのだ”\n聖人の断言である。\nわれわれ衆生の志願(のぞみ)は、食いたい飲みたい楽がしたい眠たいの五欲を満たすことしかない。\nそんな志願(のぞみ)を満たすと言われているのではない。\n庭で赤土を捏ている子供に父親が聞く。\n“太郎、何している”\n“土をこね捏て人形作るんだ”\n“それで出来るんか”\n“水がないので小便かけているんだが少なくて、土がボロボロして困っているの”\n“そうか、それじゃお父さんの小便かけてやろうか”\nこんな親があったら馬鹿か気狂いだろう。\n阿弥陀仏の志願を衆生の上に満たす、ということである。","href":"/qa/3-43?open=hitorigoto&hitorigotoId=22","タイトル":"弥陀の志願","本文":"**「無碍光如来の名号と かの光明智相とは無明長夜の闇を破し 衆生の志願をみてたまう」（高僧和讃）**\n\n“阿弥陀如来の名号と光明には、迷いの根源である無明の闇を破り、衆生の志願を満足させる力があるのだ”\n聖人の断言である。\nわれわれ衆生の志願(のぞみ)は、食いたい飲みたい楽がしたい眠たいの五欲を満たすことしかない。\nそんな志願(のぞみ)を満たすと言われているのではない。\n庭で赤土を捏ている子供に父親が聞く。\n“太郎、何している”\n“土をこね捏て人形作るんだ”\n“それで出来るんか”\n“水がないので小便かけているんだが少なくて、土がボロボロして困っているの”\n“そうか、それじゃお父さんの小便かけてやろうか”\nこんな親があったら馬鹿か気狂いだろう。\n阿弥陀仏の志願を衆生の上に満たす、ということである。","教学聖典id":"3-43"},{"id":"23","globalId":"hitorigoto:23","sortOrder":"000022","kind":"hitorigoto","title":"名号執持","content":"名号執持\n**「舎利弗よ、若し善男子、善女人ありて、阿弥陀仏を説くを聞きて、名号を執持すること若しは一日、若しは二日、若しは三日、若しは四日、若しは五日、若しは六日、若しは七日、一心不乱ならん。その人、命終わる時に臨みて、阿弥陀仏、諸の聖衆と共にその前に現在したまう」（仏説阿弥陀経）**\n\n名号を如実(ほんとう)に聞いた時、仏凡一体、機法一体、名号と一体になるから、その時が「名号執持」である。\n命が延ぶれば、若しは一日若しは七日、雑行雑修に心が向かないから「一心不乱」。\n「その人、命終わる時に臨みて」とは、自力心が死んだと同時に摂取不捨の利益に預かり、即得往生したのだから、もう肉体の臨終の来迎は用事がなくなる。\n親鸞聖人でなければ、とても開顕できぬ平生業成、現生不退の仏の正意であった。","href":"/qa/8-33?open=hitorigoto&hitorigotoId=23","タイトル":"名号執持","本文":"**「舎利弗よ、若し善男子、善女人ありて、阿弥陀仏を説くを聞きて、名号を執持すること若しは一日、若しは二日、若しは三日、若しは四日、若しは五日、若しは六日、若しは七日、一心不乱ならん。その人、命終わる時に臨みて、阿弥陀仏、諸の聖衆と共にその前に現在したまう」（仏説阿弥陀経）**\n\n名号を如実(ほんとう)に聞いた時、仏凡一体、機法一体、名号と一体になるから、その時が「名号執持」である。\n命が延ぶれば、若しは一日若しは七日、雑行雑修に心が向かないから「一心不乱」。\n「その人、命終わる時に臨みて」とは、自力心が死んだと同時に摂取不捨の利益に預かり、即得往生したのだから、もう肉体の臨終の来迎は用事がなくなる。\n親鸞聖人でなければ、とても開顕できぬ平生業成、現生不退の仏の正意であった。","教学聖典id":"8-33"},{"id":"24","globalId":"hitorigoto:24","sortOrder":"000023","kind":"hitorigoto","title":"無上の功徳","content":"無上の功徳\n**「仏、弥勒に語りたまわく、其れ彼の仏の名号を聞くこと得るありて、歓喜踊躍し乃至一念せん。当に知るべし。此の人大利を得(うる)となす。則ち、是れ無上の功徳を具足するなり」（大無量寿経）**\n\n**「阿弥陀仏の御名をきき 歓喜讃仰せしむれば功徳の宝を具足して 一念大利無上なり」（浄土和讃）**\n\n仏智、不可思議智、不可称智、大乗広智、無等無倫最上勝智の、如来の諸智を聚(あつ)めた無尽蔵の蔵だから、十八願を福智蔵といわれる。\nこの無上の功徳の宝を具足するから十方法界わが物なり。\n三千世界の果報は私一人の大自覚を得たから教人信と溢れでるのだ。\n「助ける」という約束は「助かった時」に疑いが晴れる。\n「与える」という約束は「受け取った時」に疑いが無くなるのである。\nああ、弥陀の誓願まことなるかな。","href":"/qa/3-48?open=hitorigoto&hitorigotoId=24","タイトル":"無上の功徳","本文":"**「仏、弥勒に語りたまわく、其れ彼の仏の名号を聞くこと得るありて、歓喜踊躍し乃至一念せん。当に知るべし。此の人大利を得(うる)となす。則ち、是れ無上の功徳を具足するなり」（大無量寿経）**\n\n**「阿弥陀仏の御名をきき 歓喜讃仰せしむれば功徳の宝を具足して 一念大利無上なり」（浄土和讃）**\n\n仏智、不可思議智、不可称智、大乗広智、無等無倫最上勝智の、如来の諸智を聚(あつ)めた無尽蔵の蔵だから、十八願を福智蔵といわれる。\nこの無上の功徳の宝を具足するから十方法界わが物なり。\n三千世界の果報は私一人の大自覚を得たから教人信と溢れでるのだ。\n「助ける」という約束は「助かった時」に疑いが晴れる。\n「与える」という約束は「受け取った時」に疑いが無くなるのである。\nああ、弥陀の誓願まことなるかな。","教学聖典id":"3-48"},{"id":"25","globalId":"hitorigoto:25","sortOrder":"000024","kind":"hitorigoto","title":"聞即信","content":"聞即信\n**「聞と言うは、衆生、仏願の生起・本末を聞きて疑心あることなし。是を聞というなり。一念と言うは、信心二心なきが故に一念という。是を一心と名く。一心は則ち清浄報土の真因なり」（教行信証信巻）**\n\n衆生とは十方衆生、それは逆謗の悪機。\n仏願とは、若不生者不取正覚と誓われた弥陀の十八願。\n生起とは、正覚をかけてまで生まれさすと誓われた弥陀の本願は、生まるべからざる逆謗の屍が狙いということ。\n本末とは、法蔵菩薩の因願と阿弥陀仏の大願業力。\n一念とは、危ぶみのない信心のこと。\n堕ちるに間違いなしと切り捨てられたときには、助かるに間違いなしと生き上がっているのだから、堕ちはせぬかの不安もなければ、ツユチリほどの疑いもないから、 **\"信心二心なき故に一念と言う\"** と聖人は言われているのである。","href":"/qa/3-35?open=hitorigoto&hitorigotoId=25","タイトル":"聞即信","本文":"**「聞と言うは、衆生、仏願の生起・本末を聞きて疑心あることなし。是を聞というなり。一念と言うは、信心二心なきが故に一念という。是を一心と名く。一心は則ち清浄報土の真因なり」（教行信証信巻）**\n\n衆生とは十方衆生、それは逆謗の悪機。\n仏願とは、若不生者不取正覚と誓われた弥陀の十八願。\n生起とは、正覚をかけてまで生まれさすと誓われた弥陀の本願は、生まるべからざる逆謗の屍が狙いということ。\n本末とは、法蔵菩薩の因願と阿弥陀仏の大願業力。\n一念とは、危ぶみのない信心のこと。\n堕ちるに間違いなしと切り捨てられたときには、助かるに間違いなしと生き上がっているのだから、堕ちはせぬかの不安もなければ、ツユチリほどの疑いもないから、 **\"信心二心なき故に一念と言う\"** と聖人は言われているのである。","教学聖典id":"3-35, 4-6"},{"id":"26","globalId":"hitorigoto:26","sortOrder":"000025","kind":"hitorigoto","title":"難事（火中突破）","content":"難事（火中突破）\n**「是の故に弥勒、設い大火有りて三千大千世界に充満せんに、要ず当に此を過ぎて、是の経法を聞き、歓喜信楽し、受持読誦し、如説に修行すべし」（大無量寿経）**\n\n**「たとい大千世界に、満てらん火をもすぎゆきて、仏の御名をきく人は、ながく不退にかなうなり」（浄土和讃）**\n\n**「仏法には世間の隙（仕事のこと）を闕きて聞くべし。世間の隙をあけて法を聞くべきように思うこと浅ましきことなり。仏法には明日ということはあるまじき」 （蓮如上人御一代記聞書）**\n\n後生の一大事の解決は、無量永劫の大問題。\n多生唯一の目的は無量の功徳南無阿弥陀仏の仏智全領以外に断じてない。\n堕ちるも上るも知らぬ底抜けの悪性が、色もなければ形もない名号宝珠の大功徳を今こそ明らかに知られたりと獲得するのだから、火中突破の難中の難事であることは当然至極のことである。","href":"/qa/5-29?open=hitorigoto&hitorigotoId=26","タイトル":"難事（火中突破）","本文":"**「是の故に弥勒、設い大火有りて三千大千世界に充満せんに、要ず当に此を過ぎて、是の経法を聞き、歓喜信楽し、受持読誦し、如説に修行すべし」（大無量寿経）**\n\n**「たとい大千世界に、満てらん火をもすぎゆきて、仏の御名をきく人は、ながく不退にかなうなり」（浄土和讃）**\n\n**「仏法には世間の隙（仕事のこと）を闕きて聞くべし。世間の隙をあけて法を聞くべきように思うこと浅ましきことなり。仏法には明日ということはあるまじき」 （蓮如上人御一代記聞書）**\n\n後生の一大事の解決は、無量永劫の大問題。\n多生唯一の目的は無量の功徳南無阿弥陀仏の仏智全領以外に断じてない。\n堕ちるも上るも知らぬ底抜けの悪性が、色もなければ形もない名号宝珠の大功徳を今こそ明らかに知られたりと獲得するのだから、火中突破の難中の難事であることは当然至極のことである。","教学聖典id":"9-41, 5-29, 5-31"},{"id":"27","globalId":"hitorigoto:27","sortOrder":"000026","kind":"hitorigoto","title":"無人","content":"無人\n**「たとえ、大千世界にみてらん火をもすぎゆきて仏のみ名を聞く人は永く不退にかなうなり」(浄土和讃)**\n\n\"大宇宙充満の、火中突破の決心で、仏のみ名を聞く人は必ず、絶対の幸福になれる\"\n大火をすぎゆく覚悟で、仏法を聞く人は助かる、と親鸞聖人は教えられる。\n蓮如上人は故に、「仏法は、聴聞に極まる」といい、「世間のヒマを欠きて聞くべし」\"世間の仕事を捨てて聞け\"と仰有っている。\nそれがどうだ。\n念仏さえ称えておれば、ただのただで、死んだら極楽と教えている者ばかり。\n\n**「極楽には、往き易くして、人なし」(大無量寿経)**\n\n釈尊のご金言が、身に沁みる。","href":"/qa/5-29?open=hitorigoto&hitorigotoId=27","タイトル":"無人","本文":"**「たとえ、大千世界にみてらん火をもすぎゆきて仏のみ名を聞く人は永く不退にかなうなり」(浄土和讃)**\n\n\"大宇宙充満の、火中突破の決心で、仏のみ名を聞く人は必ず、絶対の幸福になれる\"\n大火をすぎゆく覚悟で、仏法を聞く人は助かる、と親鸞聖人は教えられる。\n蓮如上人は故に、「仏法は、聴聞に極まる」といい、「世間のヒマを欠きて聞くべし」\"世間の仕事を捨てて聞け\"と仰有っている。\nそれがどうだ。\n念仏さえ称えておれば、ただのただで、死んだら極楽と教えている者ばかり。\n\n**「極楽には、往き易くして、人なし」(大無量寿経)**\n\n釈尊のご金言が、身に沁みる。","教学聖典id":"5-29, 5-30, 5-31, 8-43"},{"id":"28","globalId":"hitorigoto:28","sortOrder":"000027","kind":"hitorigoto","title":"横着者（聴聞）","content":"横着者（聴聞）\n**「至りて堅きは石なり、至りて軟なるは水なり、水よく石を穿つ。〝心源もし徹しなば、菩提の覚道何事か成ぜざらん〟といえる古き詞あり。いかに不信なりとも、聴聞を心に入れて申さば、御慈悲にて候間、信を獲べきなり。只仏法は聴聞に極まることなりと云々」（御一代記聞書）**\n\n平生業成、現生不退、一念往生は浄土真宗の淵源だが、宿善が熟さなければ、聞即信の開発はない。\n\"後生の一大事、一言お聞かせ下さい\"と尋ねると、香樹院師はこう答えたという。\n〝後生ほどの一大事、一言や二言で聞かせられようか。\n自力の仏法者は、無量永劫修行しても解決できぬと泣いているのに、一日や二日聞いて、助からぬという横着な心じゃから、信じられぬのじゃ。\n変ったことを聞くのでない。\n同じことを命がけで聞き聞きすると聞えて下さるのじゃ〟","href":"/qa/5-30?open=hitorigoto&hitorigotoId=28","タイトル":"横着者（聴聞）","本文":"**「至りて堅きは石なり、至りて軟なるは水なり、水よく石を穿つ。〝心源もし徹しなば、菩提の覚道何事か成ぜざらん〟といえる古き詞あり。いかに不信なりとも、聴聞を心に入れて申さば、御慈悲にて候間、信を獲べきなり。只仏法は聴聞に極まることなりと云々」（御一代記聞書）**\n\n平生業成、現生不退、一念往生は浄土真宗の淵源だが、宿善が熟さなければ、聞即信の開発はない。\n\"後生の一大事、一言お聞かせ下さい\"と尋ねると、香樹院師はこう答えたという。\n〝後生ほどの一大事、一言や二言で聞かせられようか。\n自力の仏法者は、無量永劫修行しても解決できぬと泣いているのに、一日や二日聞いて、助からぬという横着な心じゃから、信じられぬのじゃ。\n変ったことを聞くのでない。\n同じことを命がけで聞き聞きすると聞えて下さるのじゃ〟","教学聖典id":"5-30"},{"id":"29","globalId":"hitorigoto:29","sortOrder":"000028","kind":"hitorigoto","title":"二種深信","content":"二種深信\n**一には決定して「自身は現に是、罪悪生死の凡夫、曠劫より已来、常に没し常に流転して出離の縁あること無し」と深信す。**\n\n**二には決定して「彼の阿弥陀仏、四十八願をもって衆生を摂受したまうこと、疑なく慮なく彼の願力に乗ずれば、定んで往生を得」と深信す。**\n\n信心決定の身とは。\n無上仏に救われた世界は。\n無碍の一道は。\n絶対の幸福とは。\n不可称、不可説、不可思議の信楽と聖人は仰有る。\n言葉で表わさば二種深信。\n一つには堕ちるに間違いなし、（機の深信）\n二つには助かるに間違いなし。（法の深信）\n二つのことが同時にハッキリする。\n機法ともにツユチリの疑いもなくなるから、機法二種一具の深信という。","href":"/qa/2-22?open=hitorigoto&hitorigotoId=29","タイトル":"二種深信","本文":"**一には決定して「自身は現に是、罪悪生死の凡夫、曠劫より已来、常に没し常に流転して出離の縁あること無し」と深信す。**\n\n**二には決定して「彼の阿弥陀仏、四十八願をもって衆生を摂受したまうこと、疑なく慮なく彼の願力に乗ずれば、定んで往生を得」と深信す。**\n\n信心決定の身とは。\n無上仏に救われた世界は。\n無碍の一道は。\n絶対の幸福とは。\n不可称、不可説、不可思議の信楽と聖人は仰有る。\n言葉で表わさば二種深信。\n一つには堕ちるに間違いなし、（機の深信）\n二つには助かるに間違いなし。（法の深信）\n二つのことが同時にハッキリする。\n機法ともにツユチリの疑いもなくなるから、機法二種一具の深信という。","教学聖典id":"2-22, 2-23"},{"id":"3","globalId":"hitorigoto:3","sortOrder":"000002","kind":"hitorigoto","title":"うぬぼれ","content":"うぬぼれ\n**「慢、過慢、慢過慢、我慢、増上慢、卑下慢、邪慢」（七慢）**\n\n仏教では、修行者が百八の煩悩の中でも、最後まで苦しむのは、食欲でもなければ色欲でもなく、それは慢（うぬぼれ）であると説く。\n私は、顔の色は黒いけど、鼻が高いから。\n色は黒いし鼻も低いが、口が小さいから可愛いだろう。\n私は、口が大きいけれど、色白だ。\n色の白いのは七難かくすと言うから。\nオレはソッぱ歯だけれど、漬物食うのに都合がよいわい。\nオレは学問はないけど、働きもんだと言われている。\n仕舞いには、なんにもできんもんだけど、素直な奴だとみんなから言われているから、と安心する。\nこの慢がある以上、どんな善行をしても、相手がうっかり、“ほめもせず”“感謝もしない“と途端に腹が立つ。\n **“修善も雑毒なる故に”** の聖人の悲痛な叫びが聞えてくる。","href":"/qa/1-24?open=hitorigoto&hitorigotoId=3","タイトル":"うぬぼれ","本文":"**「慢、過慢、慢過慢、我慢、増上慢、卑下慢、邪慢」（七慢）**\n\n仏教では、修行者が百八の煩悩の中でも、最後まで苦しむのは、食欲でもなければ色欲でもなく、それは慢（うぬぼれ）であると説く。\n私は、顔の色は黒いけど、鼻が高いから。\n色は黒いし鼻も低いが、口が小さいから可愛いだろう。\n私は、口が大きいけれど、色白だ。\n色の白いのは七難かくすと言うから。\nオレはソッぱ歯だけれど、漬物食うのに都合がよいわい。\nオレは学問はないけど、働きもんだと言われている。\n仕舞いには、なんにもできんもんだけど、素直な奴だとみんなから言われているから、と安心する。\nこの慢がある以上、どんな善行をしても、相手がうっかり、“ほめもせず”“感謝もしない“と途端に腹が立つ。\n **“修善も雑毒なる故に”** の聖人の悲痛な叫びが聞えてくる。","教学聖典id":"1-24"},{"id":"30","globalId":"hitorigoto:30","sortOrder":"000029","kind":"hitorigoto","title":"信知（懺悔と感謝）","content":"信知（懺悔と感謝）\n**「自身は是れ煩悩を具足せる凡夫、善根薄少にして三界に流転して火宅を出でず、と信知す。今、弥陀の本弘誓願は名号を称すること下至十声聞等に及ぶまで定んで往生を得、と信知して、乃至一念も疑心あることなし。かるがゆえに深信と名く」（往生礼讃）**\n\n信の一念を等の文字で顕わし、命のぶれば多念に及ぶ称名を十声と教え、念仏の多少によらず、一念で救い給う弥陀の本願を明かす。\n信楽開発すれば、煩悩の動き悉く光明に照らされるから念々称名常懺悔、隨犯隨懺、信前、信後、地獄一定に変りないことが信知させられる。\n機に向けば常懺悔だが、法に向けば常歓喜。\n堕ちる処は無間のドン底、上る処は五十二段の仏覚である。\n堕ちて満足、助かって不思議、懺悔して卑屈にならず、歓喜して高慢とならず、恵まれすぎていることに感謝せずにおれない。","href":"/qa/8-40?open=hitorigoto&hitorigotoId=30","タイトル":"信知（懺悔と感謝）","本文":"**「自身は是れ煩悩を具足せる凡夫、善根薄少にして三界に流転して火宅を出でず、と信知す。今、弥陀の本弘誓願は名号を称すること下至十声聞等に及ぶまで定んで往生を得、と信知して、乃至一念も疑心あることなし。かるがゆえに深信と名く」（往生礼讃）**\n\n信の一念を等の文字で顕わし、命のぶれば多念に及ぶ称名を十声と教え、念仏の多少によらず、一念で救い給う弥陀の本願を明かす。\n信楽開発すれば、煩悩の動き悉く光明に照らされるから念々称名常懺悔、隨犯隨懺、信前、信後、地獄一定に変りないことが信知させられる。\n機に向けば常懺悔だが、法に向けば常歓喜。\n堕ちる処は無間のドン底、上る処は五十二段の仏覚である。\n堕ちて満足、助かって不思議、懺悔して卑屈にならず、歓喜して高慢とならず、恵まれすぎていることに感謝せずにおれない。","教学聖典id":"8-40"},{"id":"31","globalId":"hitorigoto:31","sortOrder":"000030","kind":"hitorigoto","title":"若不生者","content":"若不生者\n**「若不生者の誓ゆえ信楽まことに時いたり一念慶喜する人は往生必ず定まりぬ」(浄土和讃)**\n\n**「生るべからざる者を生れさせたればこそ、超世の悲願とも名け、横超の直道とも聞えはんべれ」(改邪鈔)**\n\n〝若し、生れずば正覚を取らない〟と誓われているが、〝生れたか\"と問われて、〝死んでから生れるのだ〟と答えては、生きている間は助からないことになる。\n〝生るべからざる者〟とは、どんな者か。\n腹底にウンともスンとも言わない逆謗の屍がいる。\nそれが難中之難を突破させられ、信楽と開発した時、〝生るべからざる者を生れさせたればこそ、超世の悲願であったなあ、横超の直道であった〟と大慶喜する。\n逆謗の屍のいることも知らない者は、〝生るべからざる者を生れさせたればこそ〟の開発の天地を知ることはできないのだ。","href":"/qa/3-4?open=hitorigoto&hitorigotoId=31","タイトル":"若不生者","本文":"**「若不生者の誓ゆえ信楽まことに時いたり一念慶喜する人は往生必ず定まりぬ」(浄土和讃)**\n\n**「生るべからざる者を生れさせたればこそ、超世の悲願とも名け、横超の直道とも聞えはんべれ」(改邪鈔)**\n\n〝若し、生れずば正覚を取らない〟と誓われているが、〝生れたか\"と問われて、〝死んでから生れるのだ〟と答えては、生きている間は助からないことになる。\n〝生るべからざる者〟とは、どんな者か。\n腹底にウンともスンとも言わない逆謗の屍がいる。\nそれが難中之難を突破させられ、信楽と開発した時、〝生るべからざる者を生れさせたればこそ、超世の悲願であったなあ、横超の直道であった〟と大慶喜する。\n逆謗の屍のいることも知らない者は、〝生るべからざる者を生れさせたればこそ〟の開発の天地を知ることはできないのだ。","教学聖典id":"4-44, 3-4"},{"id":"32","globalId":"hitorigoto:32","sortOrder":"000031","kind":"hitorigoto","title":"超世の悲願","content":"超世の悲願\n**「本願の不思議をもって、生るべからざるものを、生れさせたればこそ、”超世の悲願”とも名け、”横超の直道”とも聞えはんべれ」（改邪鈔）**\n\n”生るべからざるもの”とは何か。\n弥陀は五劫の思惟で、十方衆生を絶対助からぬ五逆と謗法の極悪人と見抜き本願を成就されているのに、己がその逆謗とは誰も気がつかない。\n”こんな人生死んだがましだ”と産んで育てた父母を殺している五逆罪。\n”道俗共に争いて、疑謗破滅さかりなり”とあるように、仏縁の無い者だけが謗法しているのではないのだ。\n十方衆生一人でも、逆謗でない者があれば、弥陀の見込み違いになる。\n邪見驕慢の十方衆生が、調熟の光明に照育されて始めて、”生るべからざる者とは、私だった”と知らされたとき、”生れさせて頂いた”本願の不思議さよ、と南無阿弥陀仏と噴き上るのである。","href":"/qa/2-20?open=hitorigoto&hitorigotoId=32","タイトル":"超世の悲願","本文":"**「本願の不思議をもって、生るべからざるものを、生れさせたればこそ、”超世の悲願”とも名け、”横超の直道”とも聞えはんべれ」（改邪鈔）**\n\n”生るべからざるもの”とは何か。\n弥陀は五劫の思惟で、十方衆生を絶対助からぬ五逆と謗法の極悪人と見抜き本願を成就されているのに、己がその逆謗とは誰も気がつかない。\n”こんな人生死んだがましだ”と産んで育てた父母を殺している五逆罪。\n”道俗共に争いて、疑謗破滅さかりなり”とあるように、仏縁の無い者だけが謗法しているのではないのだ。\n十方衆生一人でも、逆謗でない者があれば、弥陀の見込み違いになる。\n邪見驕慢の十方衆生が、調熟の光明に照育されて始めて、”生るべからざる者とは、私だった”と知らされたとき、”生れさせて頂いた”本願の不思議さよ、と南無阿弥陀仏と噴き上るのである。","教学聖典id":"3-4, 2-20"},{"id":"33","globalId":"hitorigoto:33","sortOrder":"000032","kind":"hitorigoto","title":"往生","content":"往生\n**「『即得往生』は、信心をうれば即ち往生すという。『即ち往生す』というは、不退転に住するをいう。『不退転に住す』というは、即ち正定聚の位に定まるなり。『成等正覚』ともいえり。これを『即得往生』というなり」（唯信鈔文意）**\n\n死後、極楽へ往くことのみが“往生”だった、それまでの常識を破られた親鸞聖人のお言葉である。\n「隣のお婆さん今朝往生した」\n「車のエンコで往生した」\n「死んだ」ことや「困った」ことを“往生”というのは論外だが、“死後浄土へ往く”ことのみを“往生”と心得ている仏教者は今でも多い。\nそれらに対して親鸞聖人は、平生に無碍の一道、絶対の幸福にする、弥陀の救いを力説された。\nいわゆる不体失往生の強調である。\nこのただいまの不体失往生なくしてはしんでからの体失往生は絶対ありえないからである。","href":"/qa/4-36?open=hitorigoto&hitorigotoId=33","タイトル":"往生","本文":"**「『即得往生』は、信心をうれば即ち往生すという。『即ち往生す』というは、不退転に住するをいう。『不退転に住す』というは、即ち正定聚の位に定まるなり。『成等正覚』ともいえり。これを『即得往生』というなり」（唯信鈔文意）**\n\n死後、極楽へ往くことのみが“往生”だった、それまでの常識を破られた親鸞聖人のお言葉である。\n「隣のお婆さん今朝往生した」\n「車のエンコで往生した」\n「死んだ」ことや「困った」ことを“往生”というのは論外だが、“死後浄土へ往く”ことのみを“往生”と心得ている仏教者は今でも多い。\nそれらに対して親鸞聖人は、平生に無碍の一道、絶対の幸福にする、弥陀の救いを力説された。\nいわゆる不体失往生の強調である。\nこのただいまの不体失往生なくしてはしんでからの体失往生は絶対ありえないからである。","教学聖典id":"8-31, 4-36"},{"id":"34","globalId":"hitorigoto:34","sortOrder":"000033","kind":"hitorigoto","title":"菩薩","content":"菩薩\n**「本願を信受するは、前念命終なり。即ち、正定聚の数に入る。即得往生は、後念即生なり。これ必定の菩薩と名くるなり」（愚禿鈔）**\n\n阿弥陀仏に救い摂られた者は、総て正定聚の菩薩であるといわれている。\n菩薩と聞くと、ご飯も食べず便所にもゆかぬ、腹も立てねばウソも言わぬ、石の地蔵のようなものと思っている者が殆どだ。\n如何に仏教に昏いことか。\n菩提薩埵を菩薩という。\n現在が生死の苦海であることに驚き、なんとか助かりたいと仏道修行に励む者は、煩悩具足であっても、みな菩薩というと『仏教大辞典』に明記されてる。\nこの世の名利に狂わされている機相から言えば、迷界の泥凡夫だけれども、法徳から言えば、弥勒菩薩より先に仏覚位を窮める正定聚の菩薩なのだ。\n凡夫のままで行かれる処は三悪道だけである。","href":"/qa/1-5?open=hitorigoto&hitorigotoId=34","タイトル":"菩薩","本文":"**「本願を信受するは、前念命終なり。即ち、正定聚の数に入る。即得往生は、後念即生なり。これ必定の菩薩と名くるなり」（愚禿鈔）**\n\n阿弥陀仏に救い摂られた者は、総て正定聚の菩薩であるといわれている。\n菩薩と聞くと、ご飯も食べず便所にもゆかぬ、腹も立てねばウソも言わぬ、石の地蔵のようなものと思っている者が殆どだ。\n如何に仏教に昏いことか。\n菩提薩埵を菩薩という。\n現在が生死の苦海であることに驚き、なんとか助かりたいと仏道修行に励む者は、煩悩具足であっても、みな菩薩というと『仏教大辞典』に明記されてる。\nこの世の名利に狂わされている機相から言えば、迷界の泥凡夫だけれども、法徳から言えば、弥勒菩薩より先に仏覚位を窮める正定聚の菩薩なのだ。\n凡夫のままで行かれる処は三悪道だけである。","教学聖典id":"4-30, 1-5"},{"id":"35","globalId":"hitorigoto:35","sortOrder":"000034","kind":"hitorigoto","title":"人類の悲劇（死ぬまで求道の悲劇）","content":"人類の悲劇（死ぬまで求道の悲劇）\n**「然れば、平生の一念によりて、往生の得否は定まれるものなり。平生のとき不定の念に住せばかなうべからず。平生のとき善知識の言葉の下に帰命の一念を発得せば、そのときをもって娑婆のおわり臨終と思うべし」（覚如上人）**\n\n**「たのむ一念のとき、往生一定、御たすけ治定とぞんじ」（蓮如上人）**\n\n政治、経済、科学、医学、剣道、柔道、書道、碁道、華道等々、世間の道には完成がない。\nだから\"死ぬまで求道が素晴らしい\"と、みんな信じ込もうとしているのだが、果たしてそうか。\n\"死ぬまで求道\"とは、百％求まらぬものと知りつつ、死ぬまで求め続ける悲劇に外ならぬ。\n聖人が法友と、体失往生（死ぬまで求道）と不体失往生（平生業成）の大諍論を断行されねばならなかった理由がそこにあったのだ。","href":"/qa/4-42?open=hitorigoto&hitorigotoId=35","タイトル":"人類の悲劇（死ぬまで求道の悲劇）","本文":"**「然れば、平生の一念によりて、往生の得否は定まれるものなり。平生のとき不定の念に住せばかなうべからず。平生のとき善知識の言葉の下に帰命の一念を発得せば、そのときをもって娑婆のおわり臨終と思うべし」（覚如上人）**\n\n**「たのむ一念のとき、往生一定、御たすけ治定とぞんじ」（蓮如上人）**\n\n政治、経済、科学、医学、剣道、柔道、書道、碁道、華道等々、世間の道には完成がない。\nだから\"死ぬまで求道が素晴らしい\"と、みんな信じ込もうとしているのだが、果たしてそうか。\n\"死ぬまで求道\"とは、百％求まらぬものと知りつつ、死ぬまで求め続ける悲劇に外ならぬ。\n聖人が法友と、体失往生（死ぬまで求道）と不体失往生（平生業成）の大諍論を断行されねばならなかった理由がそこにあったのだ。","教学聖典id":"4-42, 7-30, 5-1"},{"id":"36","globalId":"hitorigoto:36","sortOrder":"000035","kind":"hitorigoto","title":"死の縁","content":"死の縁\n**「一切衆生のありさま、過去の業因まちまちなり、また死の縁無量なり。病におかされて死する者もあり、剣にあたりて死する者もあり、水に溺れて死する者もあり、火に焼けて死する者あり、乃至寝死する者もあり、酒狂して死するたぐいあり。これみな先世の業因なり。更にのがるべきにあらず」（執持鈔）**\n\n「ねむるが如く死んだから極楽往生まちがいない」\n「目をむいたから地獄だろう」\n「なんとか静かに死にたいものじゃ」\nと案ずる者ばかり。\n臨終の相を問題にする外道邪教に対して親鸞聖人は、「死にざまと往生とは一切関係なし」と何度もお手紙でいましめていられる。\n苦しまずに息をひきとることが、往生の条件であるかのような錯覚が、自力の迷情であることを知らない。","href":"/qa/7-46?open=hitorigoto&hitorigotoId=36","タイトル":"死の縁","本文":"**「一切衆生のありさま、過去の業因まちまちなり、また死の縁無量なり。病におかされて死する者もあり、剣にあたりて死する者もあり、水に溺れて死する者もあり、火に焼けて死する者あり、乃至寝死する者もあり、酒狂して死するたぐいあり。これみな先世の業因なり。更にのがるべきにあらず」（執持鈔）**\n\n「ねむるが如く死んだから極楽往生まちがいない」\n「目をむいたから地獄だろう」\n「なんとか静かに死にたいものじゃ」\nと案ずる者ばかり。\n臨終の相を問題にする外道邪教に対して親鸞聖人は、「死にざまと往生とは一切関係なし」と何度もお手紙でいましめていられる。\n苦しまずに息をひきとることが、往生の条件であるかのような錯覚が、自力の迷情であることを知らない。","教学聖典id":"7-47, 7-46"},{"id":"37","globalId":"hitorigoto:37","sortOrder":"000036","kind":"hitorigoto","title":"難度海の大船（大船）","content":"難度海の大船（大船）\n**「ひそかにおもんみれば、難思の弘誓は難度の海を度する大船、無礙の光明は無明の闇を破する慧日なり」（教行信証総序）**\n\n\"難思の弘誓\"とは、想像のできない不可思議の弥陀の本願のこと。\n\"難度海\"とは、渡るに渡れない苦しい海ということで、この人生を言われている。\n古今東西の人類は、難度海に溺れ潮水飲まされ、悶え呪い殺し合って苦しんでいる。\n弥陀の本願は、この難度海に苦しむ人を救いあげ、四方の景色を眺めつつ楽しい人生航海をさせる大船なのだ。\n\"無碍の光明は無明の闇を破する慧日なり\"とは、弥陀の光明は十万億土の彼方から、あらゆる障害を貫き、我らの後生暗い心をぶち破り、煩悩一切を御恩喜ぶ因とする、智恵の太陽なのである。\nこの弘誓の大船に乗れば、諸有海が本願海に、煩悩海が大智海に、無明海が光明の広海と転じ、楽しい人生となる。\n聖人のお言葉である。","href":"/qa/2-43?open=hitorigoto&hitorigotoId=37","タイトル":"難度海の大船（大船）","本文":"**「ひそかにおもんみれば、難思の弘誓は難度の海を度する大船、無礙の光明は無明の闇を破する慧日なり」（教行信証総序）**\n\n\"難思の弘誓\"とは、想像のできない不可思議の弥陀の本願のこと。\n\"難度海\"とは、渡るに渡れない苦しい海ということで、この人生を言われている。\n古今東西の人類は、難度海に溺れ潮水飲まされ、悶え呪い殺し合って苦しんでいる。\n弥陀の本願は、この難度海に苦しむ人を救いあげ、四方の景色を眺めつつ楽しい人生航海をさせる大船なのだ。\n\"無碍の光明は無明の闇を破する慧日なり\"とは、弥陀の光明は十万億土の彼方から、あらゆる障害を貫き、我らの後生暗い心をぶち破り、煩悩一切を御恩喜ぶ因とする、智恵の太陽なのである。\nこの弘誓の大船に乗れば、諸有海が本願海に、煩悩海が大智海に、無明海が光明の広海と転じ、楽しい人生となる。\n聖人のお言葉である。","教学聖典id":"2-43, 2-44"},{"id":"38","globalId":"hitorigoto:38","sortOrder":"000037","kind":"hitorigoto","title":"宿縁（その程度）","content":"宿縁（その程度）\n**「噫、弘誓の強縁は、多生にも値いがたく、真実の浄信は、億劫にも獲がたし。遇行信を獲ば遠く宿縁を慶べ」（教行信証総序）**\n\n永久の闇より救われた親鸞聖人の驚きと慶びである。\n五十年や百年や千年聞いて獲られる信心ではないから、たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べと教えてあるのだ。\n「まだ獲信できぬのか」と言う自称信心の行者がいる。\n「そんな程度の信心ならね……」と答えてあげねばならぬ。","href":"/qa/4-17?open=hitorigoto&hitorigotoId=38","タイトル":"宿縁（その程度）","本文":"**「噫、弘誓の強縁は、多生にも値いがたく、真実の浄信は、億劫にも獲がたし。遇行信を獲ば遠く宿縁を慶べ」（教行信証総序）**\n\n永久の闇より救われた親鸞聖人の驚きと慶びである。\n五十年や百年や千年聞いて獲られる信心ではないから、たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べと教えてあるのだ。\n「まだ獲信できぬのか」と言う自称信心の行者がいる。\n「そんな程度の信心ならね……」と答えてあげねばならぬ。","教学聖典id":"4-17, 9-26"},{"id":"39","globalId":"hitorigoto:39","sortOrder":"000038","kind":"hitorigoto","title":"疑網（苦の根源）","content":"疑網（苦の根源）\n**「若し也、このたび、疑網に覆蔽せられなば、更りて復、昿劫を逕歴せん」（教行信証総序）**\n\n〝欲や怒りや愚痴の煩悩が、人生を苦に染める〟と、信じ込んでいる人が多い。\nそれらの人に、永久に苦しみ続ける原因は、疑網一つであり、阿弥陀仏の本願しか全人類の助かる道のないことを断言なされた聖人のお言葉である。\n疑網とは、弥陀の本願を疑う心。\n「本願疑惑心」「自力の迷情」「不了仏智」「無明」ともいわれ、仏智が満入した一念で破れる。\nこの疑網ある間は、何人にも真の幸福も報土往生もありえないのである。","href":"/qa/4-17?open=hitorigoto&hitorigotoId=39","タイトル":"疑網（苦の根源）","本文":"**「若し也、このたび、疑網に覆蔽せられなば、更りて復、昿劫を逕歴せん」（教行信証総序）**\n\n〝欲や怒りや愚痴の煩悩が、人生を苦に染める〟と、信じ込んでいる人が多い。\nそれらの人に、永久に苦しみ続ける原因は、疑網一つであり、阿弥陀仏の本願しか全人類の助かる道のないことを断言なされた聖人のお言葉である。\n疑網とは、弥陀の本願を疑う心。\n「本願疑惑心」「自力の迷情」「不了仏智」「無明」ともいわれ、仏智が満入した一念で破れる。\nこの疑網ある間は、何人にも真の幸福も報土往生もありえないのである。","教学聖典id":"4-17"},{"id":"4","globalId":"hitorigoto:4","sortOrder":"000003","kind":"hitorigoto","title":"万人の真実（道破）","content":"万人の真実（道破）\n**一切の群生海、無始より已来、乃至今日・今時に至るまで、穢悪汚染にして清浄の心無く、虚仮諂偽にして真実の心無し。（教行信証信巻）**\n\n悠久の先祖より無窮の子孫に至るまで、人間のすべては、曽無一善であり、一生造悪であり、罪悪深重である。\nしかも、無慚無愧であるから地獄一定であり、必堕無間であり、出離の縁あることなしだ。\nこれに例外はあり得ない。\n最深の意味で、一人は万人であり、一は一切である。\n一人の上に突き止められた真実は、すなわち万人の真実であり、一の上に体験さるる究竟の真理は、すなわち一切の上に体験さるべき究竟の真理なのだ。\n親鸞聖人は、自己の真実を通して万人の真実を読み、一身の真理に即して、一切の真理を道破されたものである。","href":"/qa/2-28?open=hitorigoto&hitorigotoId=4","タイトル":"万人の真実（道破）","本文":"**一切の群生海、無始より已来、乃至今日・今時に至るまで、穢悪汚染にして清浄の心無く、虚仮諂偽にして真実の心無し。（教行信証信巻）**\n\n悠久の先祖より無窮の子孫に至るまで、人間のすべては、曽無一善であり、一生造悪であり、罪悪深重である。\nしかも、無慚無愧であるから地獄一定であり、必堕無間であり、出離の縁あることなしだ。\nこれに例外はあり得ない。\n最深の意味で、一人は万人であり、一は一切である。\n一人の上に突き止められた真実は、すなわち万人の真実であり、一の上に体験さるる究竟の真理は、すなわち一切の上に体験さるべき究竟の真理なのだ。\n親鸞聖人は、自己の真実を通して万人の真実を読み、一身の真理に即して、一切の真理を道破されたものである。","教学聖典id":"2-28"},{"id":"40","globalId":"hitorigoto:40","sortOrder":"000039","kind":"hitorigoto","title":"真実（原点）","content":"真実（原点）\n**「誠なるかなや、摂取不捨の真言、超世希有の正法、聞思して遅慮することなかれ」（教行信証総序）**\n\n〝火宅無常の世界は、すべてのことみな、そらごと・たわごと・真実あることなし。ただ弥陀の本願のみが真実だった。真実に値うまで真実を聞け〟\n聖人必死のお叫びである。\n〝弥陀の本願まことだから、それ一つを説かれた釈尊、善導、法然に間違いがあるはずがない。これらの方の仰せがまことならば、親鸞の説くことに、どうして虚言がありうるか〟\n「本願まことだった」の体験が常に聖人の原点であったのだ。","href":"/qa/2-45?open=hitorigoto&hitorigotoId=40","タイトル":"真実（原点）","本文":"**「誠なるかなや、摂取不捨の真言、超世希有の正法、聞思して遅慮することなかれ」（教行信証総序）**\n\n〝火宅無常の世界は、すべてのことみな、そらごと・たわごと・真実あることなし。ただ弥陀の本願のみが真実だった。真実に値うまで真実を聞け〟\n聖人必死のお叫びである。\n〝弥陀の本願まことだから、それ一つを説かれた釈尊、善導、法然に間違いがあるはずがない。これらの方の仰せがまことならば、親鸞の説くことに、どうして虚言がありうるか〟\n「本願まことだった」の体験が常に聖人の原点であったのだ。","教学聖典id":"4-17, 2-45"},{"id":"41","globalId":"hitorigoto:41","sortOrder":"000040","kind":"hitorigoto","title":"大悲の願船","content":"大悲の願船\n**「しかれば、大悲の願船に乗じて、光明の広海に浮びぬれば、至徳の風静に、衆禍の波転ず」（教行信証）**\n\n果しなき闇黒の人生に溺れ苦しんでいた親鸞が、阿弥陀如来の本願の大船に救いあげられてみると、不思議なるかなや、苦悩渦巻く人生が光明輝く無碍の人生と転じ変った。\n\"至徳の風静に\"とは、万善万行恒沙の功徳のこもっている南無阿弥陀仏と一体となる至徳具足の大益で、順風に帆を挙げる素敵な航海のように、なんと人生は愉快なのか。\n\"衆禍の波転ず\"とは、ロクな因まきしてこなかった親鸞だから、因果の道理に狂いなく、不幸や災難の禍はいろいろ押しかけて来るが、それらが向きを変えて御恩喜ぶ因となるから不思議である。\nかくて、順境でよし、逆境でよし。\nどちらでも拝めるから無碍の一道は有難きかな、と聖人は仰有っているのだ。","href":"/qa/2-44?open=hitorigoto&hitorigotoId=41","タイトル":"大悲の願船","本文":"**「しかれば、大悲の願船に乗じて、光明の広海に浮びぬれば、至徳の風静に、衆禍の波転ず」（教行信証）**\n\n果しなき闇黒の人生に溺れ苦しんでいた親鸞が、阿弥陀如来の本願の大船に救いあげられてみると、不思議なるかなや、苦悩渦巻く人生が光明輝く無碍の人生と転じ変った。\n\"至徳の風静に\"とは、万善万行恒沙の功徳のこもっている南無阿弥陀仏と一体となる至徳具足の大益で、順風に帆を挙げる素敵な航海のように、なんと人生は愉快なのか。\n\"衆禍の波転ず\"とは、ロクな因まきしてこなかった親鸞だから、因果の道理に狂いなく、不幸や災難の禍はいろいろ押しかけて来るが、それらが向きを変えて御恩喜ぶ因となるから不思議である。\nかくて、順境でよし、逆境でよし。\nどちらでも拝めるから無碍の一道は有難きかな、と聖人は仰有っているのだ。","教学聖典id":"2-44"},{"id":"42","globalId":"hitorigoto:42","sortOrder":"000041","kind":"hitorigoto","title":"真の慈愛","content":"真の慈愛\n**「夫れ以れば、信楽を獲得することは、如来選択の願心より発起す、真心を開闡することは、大聖矜哀の善巧より顕彰せり。然るに末代の道俗・近世の宗師、自性唯心に沈んで浄土の真証を貶し、定散の自心に迷うて金剛の真信に昏し。ここに愚禿釈の親鸞、諸仏如来の真説に信順して、論家・釈家の宗義を披閲し、広く三経の光澤を蒙りて、特に一心の華文を開き、しばらく疑問を至して遂に明證を出す。誠に仏恩の深重なるを念じて、人倫の哢言を恥じず。浄邦を忻う徒衆、穢域を厭う庶類、取捨を加うと雖も、毀謗を生ずることなかれ」（教行信証信巻）**\n\n“真信に昏し”と疑謗の輩を破邪なされ、“親鸞更に私なし、諸仏や七高僧の真意を開顕するのみである。私の文の取捨は結構だが、疑謗だけはしなさるなよ。\n重い法謗罪は汝のものとなるからなあ”\n\nと、どこどこまでも相手を想う慈愛あふるるお言葉ではないか。","href":"/qa/5-21?open=hitorigoto&hitorigotoId=42","タイトル":"真の慈愛","本文":"**「夫れ以れば、信楽を獲得することは、如来選択の願心より発起す、真心を開闡することは、大聖矜哀の善巧より顕彰せり。然るに末代の道俗・近世の宗師、自性唯心に沈んで浄土の真証を貶し、定散の自心に迷うて金剛の真信に昏し。ここに愚禿釈の親鸞、諸仏如来の真説に信順して、論家・釈家の宗義を披閲し、広く三経の光澤を蒙りて、特に一心の華文を開き、しばらく疑問を至して遂に明證を出す。誠に仏恩の深重なるを念じて、人倫の哢言を恥じず。浄邦を忻う徒衆、穢域を厭う庶類、取捨を加うと雖も、毀謗を生ずることなかれ」（教行信証信巻）**\n\n“真信に昏し”と疑謗の輩を破邪なされ、“親鸞更に私なし、諸仏や七高僧の真意を開顕するのみである。私の文の取捨は結構だが、疑謗だけはしなさるなよ。\n重い法謗罪は汝のものとなるからなあ”\n\nと、どこどこまでも相手を想う慈愛あふるるお言葉ではないか。","教学聖典id":"7-6, 5-21, 6-16"},{"id":"43","globalId":"hitorigoto:43","sortOrder":"000042","kind":"hitorigoto","title":"浄土の真証","content":"浄土の真証\n**「しかるに末代の道俗、近世の宗師、自性唯心に沈みて、浄土の真証を貶す」（教行信証信巻）**\n\n “阿弥陀仏もお浄土も、我らの心を離れては存在しない（自性唯心に沈み）。\n心の外に弥陀や浄土があると説くのは、幼稚な神話的教えにすぎぬ（浄土の真証を貶す）と貶す者がいる。\n全くこれらの者は、真実の仏教を知らぬのだ” 叡山や南都の、華厳、天台、真言は言うまでもなく、本師源空を攻撃した栂尾の明恵、笠置の解脱を始め、禅宗の栄西、道元など、仏教界の指導者を総括して「真実の仏教を知らざる輩」と斬り落された親鸞聖人のお言葉である。\nいくら激しく斬られても、自性唯心に沈む者は、今日も跡を絶たない。\n浄土の真証が、それだけ得難いということであろう。","href":"/qa/7-5?open=hitorigoto&hitorigotoId=43","タイトル":"浄土の真証","本文":"**「しかるに末代の道俗、近世の宗師、自性唯心に沈みて、浄土の真証を貶す」（教行信証信巻）**\n\n “阿弥陀仏もお浄土も、我らの心を離れては存在しない（自性唯心に沈み）。\n心の外に弥陀や浄土があると説くのは、幼稚な神話的教えにすぎぬ（浄土の真証を貶す）と貶す者がいる。\n全くこれらの者は、真実の仏教を知らぬのだ” 叡山や南都の、華厳、天台、真言は言うまでもなく、本師源空を攻撃した栂尾の明恵、笠置の解脱を始め、禅宗の栄西、道元など、仏教界の指導者を総括して「真実の仏教を知らざる輩」と斬り落された親鸞聖人のお言葉である。\nいくら激しく斬られても、自性唯心に沈む者は、今日も跡を絶たない。\n浄土の真証が、それだけ得難いということであろう。","教学聖典id":"7-5, 7-6"},{"id":"44","globalId":"hitorigoto:44","sortOrder":"000043","kind":"hitorigoto","title":"自力の心","content":"自力の心\n**〝定散の自心に迷うて、金剛の真信に昏し〟（教行信証）**\n\n定とは息慮凝心。\n雑念を払うて坐禅観念をして、心を落ちつかせること。\n散とは廃悪修善。\n悪を廃して善を励むことである。\n心静かに念仏がでる時は、これが他力の念仏だと喜び、安心もするが、妄念が噴きでる時の念仏は、砂を噛むようで味がなく、これでは助からんのではなかろうかと不安になる。\n拾い物を届けたり、善い行為ができた時の念仏は極楽へ行けそうだが、ケンカして心が鬼になった時の念仏は、とても浄土へ行けそうでない。\n自分の心の善悪で、往生が動乱するから、これを自心（自力の心）と言われるのだ。\n〝善もほしからず、悪もおそれず〟の善悪を超越した、絶対他力の真実信心まで進んでいないので〝自心に迷うて〟〝真信に昏し〟と言われているのである。","href":"/qa/5-21?open=hitorigoto&hitorigotoId=44","タイトル":"自力の心","本文":"**〝定散の自心に迷うて、金剛の真信に昏し〟（教行信証）**\n\n定とは息慮凝心。\n雑念を払うて坐禅観念をして、心を落ちつかせること。\n散とは廃悪修善。\n悪を廃して善を励むことである。\n心静かに念仏がでる時は、これが他力の念仏だと喜び、安心もするが、妄念が噴きでる時の念仏は、砂を噛むようで味がなく、これでは助からんのではなかろうかと不安になる。\n拾い物を届けたり、善い行為ができた時の念仏は極楽へ行けそうだが、ケンカして心が鬼になった時の念仏は、とても浄土へ行けそうでない。\n自分の心の善悪で、往生が動乱するから、これを自心（自力の心）と言われるのだ。\n〝善もほしからず、悪もおそれず〟の善悪を超越した、絶対他力の真実信心まで進んでいないので〝自心に迷うて〟〝真信に昏し〟と言われているのである。","教学聖典id":"5-21"},{"id":"45","globalId":"hitorigoto:45","sortOrder":"000044","kind":"hitorigoto","title":"果報者","content":"果報者\n**「金剛の真心を獲得する者は、横に五趣八難の道を超え、必ず現生に十種の益を獲る」（教行信証信巻）**\n\n**「五濁悪世の有情の選択本願信ずれば不可称不可説不可思議の功徳は行者の身にみてり」（正像末和讃）**\n\n**「南無阿弥陀仏をとなうればこの世の利益きわもなし流転輪廻の罪消えて定業中夭のぞこりぬ」（現世利益和讃）**\n\n\"金剛の真心を獲得すれば\"\n\"選択本願信ずれば\"と念が押されてある。\n物質の中に埋もれていても、不足や愚痴を並べて苦毒を吐いている者もあれば、閑古鳥の中で満足している者もいる。\n底抜けの悪性が、無尽蔵の功徳を全領すれば説かずにおれぬ。\n信仰の慶びは、物質の多寡ではない。\n衆苦充満の中に仏智が満入すれば、十方法界花盛り、世界最第一の果報者となる。","href":"/qa/3-13?open=hitorigoto&hitorigotoId=45","タイトル":"果報者","本文":"**「金剛の真心を獲得する者は、横に五趣八難の道を超え、必ず現生に十種の益を獲る」（教行信証信巻）**\n\n**「五濁悪世の有情の選択本願信ずれば不可称不可説不可思議の功徳は行者の身にみてり」（正像末和讃）**\n\n**「南無阿弥陀仏をとなうればこの世の利益きわもなし流転輪廻の罪消えて定業中夭のぞこりぬ」（現世利益和讃）**\n\n\"金剛の真心を獲得すれば\"\n\"選択本願信ずれば\"と念が押されてある。\n物質の中に埋もれていても、不足や愚痴を並べて苦毒を吐いている者もあれば、閑古鳥の中で満足している者もいる。\n底抜けの悪性が、無尽蔵の功徳を全領すれば説かずにおれぬ。\n信仰の慶びは、物質の多寡ではない。\n衆苦充満の中に仏智が満入すれば、十方法界花盛り、世界最第一の果報者となる。","教学聖典id":"3-14, 3-49, 3-13"},{"id":"46","globalId":"hitorigoto:46","sortOrder":"000045","kind":"hitorigoto","title":"横超の直道（弥勒御免）","content":"横超の直道（弥勒御免）\n**「真に知んぬ。弥勒大士は、等覚の金剛心を窮むるが故に、龍華三会の暁、当に無上覚位を極むべし。念仏の衆生は横超の金剛心を窮むるが故に、臨終一念の夕、大槃涅槃を超証す」(教行信証）**\n\n**「五十六億七千萬　弥勒菩薩は歳をへん　まことの信心うる人は　この度、証りを開くべし」（正像末和讃）**\n\n五十六億七千万年後、婆意多利耶如来となる釈迦の後継者、弥勒は、最も位の高い等覚の菩薩である。\n弥勒信者は、今でも決して少なくない。\n横超の金剛心が徹底すると同時に我々は、その弥勒菩薩と同格になる。\nそれだけではない。五十六億七千万年後でなければ仏覚に到達できぬ弥勒を尻目に、〝お先ご免〟と念仏者は、命終に無上覚を超証するのだ。\n〝真に知んぬ〟明らかな聖人の、偉大な信念の表白である。","href":"/qa/4-32?open=hitorigoto&hitorigotoId=46","タイトル":"横超の直道（弥勒御免）","本文":"**「真に知んぬ。弥勒大士は、等覚の金剛心を窮むるが故に、龍華三会の暁、当に無上覚位を極むべし。念仏の衆生は横超の金剛心を窮むるが故に、臨終一念の夕、大槃涅槃を超証す」(教行信証）**\n\n**「五十六億七千萬　弥勒菩薩は歳をへん　まことの信心うる人は　この度、証りを開くべし」（正像末和讃）**\n\n五十六億七千万年後、婆意多利耶如来となる釈迦の後継者、弥勒は、最も位の高い等覚の菩薩である。\n弥勒信者は、今でも決して少なくない。\n横超の金剛心が徹底すると同時に我々は、その弥勒菩薩と同格になる。\nそれだけではない。五十六億七千万年後でなければ仏覚に到達できぬ弥勒を尻目に、〝お先ご免〟と念仏者は、命終に無上覚を超証するのだ。\n〝真に知んぬ〟明らかな聖人の、偉大な信念の表白である。","教学聖典id":"4-32, 4-33"},{"id":"47","globalId":"hitorigoto:47","sortOrder":"000046","kind":"hitorigoto","title":"三願転入","content":"三願転入\n**「然るに願海につきて、真あり仮あり。ー乃至ー真仮を知らざるによりて、如来広大の恩徳を迷失す」（教行信証真仏土巻）**\n\n真実を知らない者は、方便も知らない。\n真実の十八願だけでよいのなら、法蔵菩薩は十九・二十の方便願を建立される筈がない。\n十方衆生は各自の宗教を最高無上と信じている。\n「あんな者となんで夫婦になったのか。気がしれん」と笑われていても、本人同士はアバタもエクボに見えるのだから仕方がない。\n善悪を超えた仏智不思議の世界に出させるのが仏の正意だが、自力の執着は一朝一夕に浄尽できぬ。\nそこで励んだ徳に応じて果報が得られるぞと修善を勧めて、十方衆生を統合し、二十願に導こうとするのが十九の願である。\n大人になっても積木遊びでは親泣かせだから、十九・二十願で根機を調え、十八願真実へ転入させられる。\n釈尊も三部経にこれを開顕し、聖人は自ら三願転入して出世の本懐を遂げられている。","href":"/qa/7-17?open=hitorigoto&hitorigotoId=47","タイトル":"三願転入","本文":"**「然るに願海につきて、真あり仮あり。ー乃至ー真仮を知らざるによりて、如来広大の恩徳を迷失す」（教行信証真仏土巻）**\n\n真実を知らない者は、方便も知らない。\n真実の十八願だけでよいのなら、法蔵菩薩は十九・二十の方便願を建立される筈がない。\n十方衆生は各自の宗教を最高無上と信じている。\n「あんな者となんで夫婦になったのか。気がしれん」と笑われていても、本人同士はアバタもエクボに見えるのだから仕方がない。\n善悪を超えた仏智不思議の世界に出させるのが仏の正意だが、自力の執着は一朝一夕に浄尽できぬ。\nそこで励んだ徳に応じて果報が得られるぞと修善を勧めて、十方衆生を統合し、二十願に導こうとするのが十九の願である。\n大人になっても積木遊びでは親泣かせだから、十九・二十願で根機を調え、十八願真実へ転入させられる。\n釈尊も三部経にこれを開顕し、聖人は自ら三願転入して出世の本懐を遂げられている。","教学聖典id":"7-22, 7-29, 7-24, 7-17"},{"id":"48","globalId":"hitorigoto:48","sortOrder":"000047","kind":"hitorigoto","title":"喜べぬワケ","content":"喜べぬワケ\n**「真に知んぬ。専修にして雑心なる者は大慶喜心を獲ず」（教行信証化土巻）**\n\n“本当にそうであったなぁー”の歎息が“真に知んぬ”。\nＮＨＫのノド自慢で、鐘三ッ鳴らした者の、あの喜びようはどうか。\n四年に一度とはいいながらオリンピック・メダリスト達の、あの感激ぶりはどうだ。\nたかがノド自慢、オリンピックといえば驚くかも知れぬが、後生の一大事とは較ぶべくもない。\n出世の本懐を遂げてみて、初めて喜ばれぬ理由が知らされた、と聖人は仰有る。\n専ら念仏は称えているけれど、往生ハッキリしない雑心の者は大慶喜心を獲ず、と。\n心の浄土に化生して、真の仏弟子となり、心命終を獲て大会衆の数に入る。\n法が機に生き、機に法が生きたら、無尽の煩悩が照し出され、無限の懺悔となり歓喜になるのだ。","href":"/qa/2-23?open=hitorigoto&hitorigotoId=48","タイトル":"喜べぬワケ","本文":"**「真に知んぬ。専修にして雑心なる者は大慶喜心を獲ず」（教行信証化土巻）**\n\n“本当にそうであったなぁー”の歎息が“真に知んぬ”。\nＮＨＫのノド自慢で、鐘三ッ鳴らした者の、あの喜びようはどうか。\n四年に一度とはいいながらオリンピック・メダリスト達の、あの感激ぶりはどうだ。\nたかがノド自慢、オリンピックといえば驚くかも知れぬが、後生の一大事とは較ぶべくもない。\n出世の本懐を遂げてみて、初めて喜ばれぬ理由が知らされた、と聖人は仰有る。\n専ら念仏は称えているけれど、往生ハッキリしない雑心の者は大慶喜心を獲ず、と。\n心の浄土に化生して、真の仏弟子となり、心命終を獲て大会衆の数に入る。\n法が機に生き、機に法が生きたら、無尽の煩悩が照し出され、無限の懺悔となり歓喜になるのだ。","教学聖典id":"5-11, 2-23"},{"id":"49","globalId":"hitorigoto:49","sortOrder":"000048","kind":"hitorigoto","title":"権威（聖人の権威）","content":"権威（聖人の権威）\n**「主上、臣下、法に背き義に違し、忿を成し怨を結ぶ」（教行信証後序）**\n\n後鳥羽上皇によって、法友の安楽房らが処刑された。\n熊野参詣の留守中に、仏法にかこつけて御所に入り、女と密通したという、怒りによってである。\n安楽はその時、上皇達を面罵した。\n\n〝今不幸なのは私ではない。威たけ高に、真実の仏法に生きる私を責めているお前達こそ、最も憐れむべき不幸な者なのだ。必ず地獄に堕ち永遠に責め苦を受け続けるであろう〟\n\nますます激怒した上皇は、六条河原で、安楽房の首を刎ねさせたのである。\n\n〝たとえ事実にせよ、天皇時代から多くの女性を一身に奉仕させて来た男に、それを怒る権利や資格があるだろうか。何という無法か。そんな一片の反省もない彼らに、安楽房の怒りは当然だ〟\n\n聖人の眼中には、どんな権威もあり得なかったのである。","href":"/qa/6-20?open=hitorigoto&hitorigotoId=49","タイトル":"権威（聖人の権威）","本文":"**「主上、臣下、法に背き義に違し、忿を成し怨を結ぶ」（教行信証後序）**\n\n後鳥羽上皇によって、法友の安楽房らが処刑された。\n熊野参詣の留守中に、仏法にかこつけて御所に入り、女と密通したという、怒りによってである。\n安楽はその時、上皇達を面罵した。\n\n〝今不幸なのは私ではない。威たけ高に、真実の仏法に生きる私を責めているお前達こそ、最も憐れむべき不幸な者なのだ。必ず地獄に堕ち永遠に責め苦を受け続けるであろう〟\n\nますます激怒した上皇は、六条河原で、安楽房の首を刎ねさせたのである。\n\n〝たとえ事実にせよ、天皇時代から多くの女性を一身に奉仕させて来た男に、それを怒る権利や資格があるだろうか。何という無法か。そんな一片の反省もない彼らに、安楽房の怒りは当然だ〟\n\n聖人の眼中には、どんな権威もあり得なかったのである。","教学聖典id":"6-20"},{"id":"5","globalId":"hitorigoto:5","sortOrder":"000004","kind":"hitorigoto","title":"悪魔","content":"悪魔\n**「自身はこれ、煩悩具足せる凡夫、善根薄少にして、三界に流転して、火宅を出ずと信知す」（往生礼讃）**\n\n大心海化現と、親鸞聖人が仰がれる、善導大師の告白である。\n人間は、欲や怒り、腹立ち、ねたみ、そねみの絶えぬ悪性な者と思っていても、他人の金品をと盗ったこともなければ刑務所に行ったこともない。\nそんな自分が、大宇宙一番の悪魔とはツユほども思ってはいない。\nそれくらいの程度では、誰も、善導大師の真意は読めぬ。\n煩悩具足の凡夫と心得てはいても、ツユチリの疑いもなく、助かる縁の永久になき極悪人と信知するは稀である。\n吾子に悪魔と名付けて、世間を驚かせた親がいた。\n自身が、三千世界随一の悪魔だったと信知させられてのことならば、極めて有難いことではなかろうか。","href":"/qa/2-23?open=hitorigoto&hitorigotoId=5","タイトル":"悪魔","本文":"**「自身はこれ、煩悩具足せる凡夫、善根薄少にして、三界に流転して、火宅を出ずと信知す」（往生礼讃）**\n\n大心海化現と、親鸞聖人が仰がれる、善導大師の告白である。\n人間は、欲や怒り、腹立ち、ねたみ、そねみの絶えぬ悪性な者と思っていても、他人の金品をと盗ったこともなければ刑務所に行ったこともない。\nそんな自分が、大宇宙一番の悪魔とはツユほども思ってはいない。\nそれくらいの程度では、誰も、善導大師の真意は読めぬ。\n煩悩具足の凡夫と心得てはいても、ツユチリの疑いもなく、助かる縁の永久になき極悪人と信知するは稀である。\n吾子に悪魔と名付けて、世間を驚かせた親がいた。\n自身が、三千世界随一の悪魔だったと信知させられてのことならば、極めて有難いことではなかろうか。","教学聖典id":"2-23"},{"id":"50","globalId":"hitorigoto:50","sortOrder":"000049","kind":"hitorigoto","title":"今さかんなり（たくましき聖人）","content":"今さかんなり（たくましき聖人）\n**「主上、臣下、法にそむき義に違し、怒りをなし、うらみを結ぶ」**\n\n**「ひそかに以みれば、聖道の諸教は行証久しく廃れ、浄土の真宗は証道今盛なり。然るに諸寺の釈門、教に昏くして真仮の門戸を知らず、洛都の儒林、行に迷うて、邪正の道路を弁うることなし」**\n\n**「末代の道俗、近世の宗師、自性唯心に沈みて、浄土の真証を貶す。定散の自心に迷いて、金剛の真信に昏し」（教行信証）**\n\n外からは、肉食妻帯の堕落坊主。\n天皇からは越後流罪。\n内からは、背師自立の高慢坊主。\n弁円からは不倶戴天の敵と狙われた親鸞聖人。\n八方総攻撃の中、迷える人間共の非難攻撃ぐらいで後ずさりができるものかと「法に背く天皇」「仏法知らぬ坊主共」「善悪分らぬ儒林」「金剛の真信に昏い者達」と猛反撃し、「浄土の真宗今盛なり」と甚だ意気軒昂だ。\nまさに、他力とは如来の本願力なり、不思議なり、大願業力なりである。","href":"/qa/5-21?open=hitorigoto&hitorigotoId=50","タイトル":"今さかんなり（たくましき聖人）","本文":"**「主上、臣下、法にそむき義に違し、怒りをなし、うらみを結ぶ」**\n\n**「ひそかに以みれば、聖道の諸教は行証久しく廃れ、浄土の真宗は証道今盛なり。然るに諸寺の釈門、教に昏くして真仮の門戸を知らず、洛都の儒林、行に迷うて、邪正の道路を弁うることなし」**\n\n**「末代の道俗、近世の宗師、自性唯心に沈みて、浄土の真証を貶す。定散の自心に迷いて、金剛の真信に昏し」（教行信証）**\n\n外からは、肉食妻帯の堕落坊主。\n天皇からは越後流罪。\n内からは、背師自立の高慢坊主。\n弁円からは不倶戴天の敵と狙われた親鸞聖人。\n八方総攻撃の中、迷える人間共の非難攻撃ぐらいで後ずさりができるものかと「法に背く天皇」「仏法知らぬ坊主共」「善悪分らぬ儒林」「金剛の真信に昏い者達」と猛反撃し、「浄土の真宗今盛なり」と甚だ意気軒昂だ。\nまさに、他力とは如来の本願力なり、不思議なり、大願業力なりである。","教学聖典id":"6-20, 7-4, 5-21"},{"id":"51","globalId":"hitorigoto:51","sortOrder":"000050","kind":"hitorigoto","title":"弘誓の仏地（仏地に樹つ）","content":"弘誓の仏地（仏地に樹つ）\n**「慶しきかな。心を弘誓の仏地に樹て、念を難思の法海に流す。深く如来の矜哀を知りて、良に師教の恩厚を仰ぐ。慶喜いよいよ至り、至孝いよいよ重し」（教行信証後序）**\n\n**「弥陀の本願まことにおわしまさば、釈尊の説教虚言なるべからず。仏説まことにおわしまさば、善導の御釈虚言したもうべからず。善導の御釈まことならば、法然の仰そらごとならんや。法然の仰まことならば、親鸞が申す旨、またもって虚しかるべからず候か」**\n\n金力にたつ者は、金力を、権力にたつ人は、権力を、名誉にたつ者は、名誉を失った時に倒れる。\n信念にたつ人も、その信念揺らいだ時、また顛倒す。\nたとえ、釈尊、善導、法然さまが揺らごうとも、心を弘誓の仏地に樹てば、永久に倒れぬ無碍人となる。","href":"/qa/3-12?open=hitorigoto&hitorigotoId=51","タイトル":"弘誓の仏地（仏地に樹つ）","本文":"**「慶しきかな。心を弘誓の仏地に樹て、念を難思の法海に流す。深く如来の矜哀を知りて、良に師教の恩厚を仰ぐ。慶喜いよいよ至り、至孝いよいよ重し」（教行信証後序）**\n\n**「弥陀の本願まことにおわしまさば、釈尊の説教虚言なるべからず。仏説まことにおわしまさば、善導の御釈虚言したもうべからず。善導の御釈まことならば、法然の仰そらごとならんや。法然の仰まことならば、親鸞が申す旨、またもって虚しかるべからず候か」**\n\n金力にたつ者は、金力を、権力にたつ人は、権力を、名誉にたつ者は、名誉を失った時に倒れる。\n信念にたつ人も、その信念揺らいだ時、また顛倒す。\nたとえ、釈尊、善導、法然さまが揺らごうとも、心を弘誓の仏地に樹てば、永久に倒れぬ無碍人となる。","教学聖典id":"3-12"},{"id":"52","globalId":"hitorigoto:52","sortOrder":"000051","kind":"hitorigoto","title":"遺弟","content":"遺弟\n**「釈迦如来かくれましまして 二千余年になりたまう 正像の二時はおわりにき 如来の遺弟 悲泣せよ」（正像末和讃）**\n\n**「一宗の繁昌と申すは、人の多く集り、威の大なる事にてはなく候。 一人なりとも人の信を取るが、一宗の繁昌に候。 然れば『専修正行の繁昌は遺弟の念力より成ず』と遊ばされおかれ候」（御一代記聞書）**\n\n悲泣すべき遺弟と、勇躍すべき遺弟が示されている。\n千人いても、一人も救われない教えよりも、一人いて一人救われる御教えは百パーセント。これ以上の繁昌はない。\n祖師聖人の遺弟は、〝更に珍らしき法をも弘めず、聖人のみ教えを、我も信じ、他人にも教え聞かしむるばかりなり〟に、ひたすら徹しなければならない。\n自他ともに、親鸞聖人のみ教えを徹底する。\nこの外、遺弟の使命はあり得ないのだ。","href":"/qa/1-12?open=hitorigoto&hitorigotoId=52","タイトル":"遺弟","本文":"**「釈迦如来かくれましまして 二千余年になりたまう 正像の二時はおわりにき 如来の遺弟 悲泣せよ」（正像末和讃）**\n\n**「一宗の繁昌と申すは、人の多く集り、威の大なる事にてはなく候。 一人なりとも人の信を取るが、一宗の繁昌に候。 然れば『専修正行の繁昌は遺弟の念力より成ず』と遊ばされおかれ候」（御一代記聞書）**\n\n悲泣すべき遺弟と、勇躍すべき遺弟が示されている。\n千人いても、一人も救われない教えよりも、一人いて一人救われる御教えは百パーセント。これ以上の繁昌はない。\n祖師聖人の遺弟は、〝更に珍らしき法をも弘めず、聖人のみ教えを、我も信じ、他人にも教え聞かしむるばかりなり〟に、ひたすら徹しなければならない。\n自他ともに、親鸞聖人のみ教えを徹底する。\nこの外、遺弟の使命はあり得ないのだ。","教学聖典id":"6-22, 1-12, 5-1"},{"id":"53","globalId":"hitorigoto:53","sortOrder":"000052","kind":"hitorigoto","title":"聖人さまも同じ","content":"聖人さまも同じ\n**「三恒河沙の諸仏の、出世のみもとにありしとき、大菩提心おこせども、自力かなわで流転せり」（正像末和讃）**\n\n「今日こそは今日こそは」と奮発心おこせども「ダメだった、またダメだった」と、自力かなわで流転したと、聖人さまも泣いていられる。\n楽に、簡単に聞ける法なら難中之難とは言われない。\nいまの流転が、永久の流転と自力無功の証である。","href":"/qa/9-26?open=hitorigoto&hitorigotoId=53","タイトル":"聖人さまも同じ","本文":"**「三恒河沙の諸仏の、出世のみもとにありしとき、大菩提心おこせども、自力かなわで流転せり」（正像末和讃）**\n\n「今日こそは今日こそは」と奮発心おこせども「ダメだった、またダメだった」と、自力かなわで流転したと、聖人さまも泣いていられる。\n楽に、簡単に聞ける法なら難中之難とは言われない。\nいまの流転が、永久の流転と自力無功の証である。","教学聖典id":"9-26"},{"id":"54","globalId":"hitorigoto:54","sortOrder":"000053","kind":"hitorigoto","title":"願と教と仏語","content":"願と教と仏語\n**「利他の信楽うるひとは　願に相応するゆえに　教と仏語にしたがえば　外の雑縁さらになし」（高僧和讃）**\n\n願は弥陀の本願、教は釈迦の教え、仏語とは諸仏のお言葉である。\n**「唯除五逆誹謗正法」** と切り堕とされた劣機が **「若不生者不取正覚」** の弘誓の強縁によって、 **至心信楽欲生我国** の大満足に生かされたときが、阿弥陀仏の本願に相応した時。\nその無碍の世界まで調機誘引する為の釈尊一代の教えであったのだから、その時が釈迦の教えにしたがったのだ。\n十方諸仏の証誠は、この極難信の弥陀の本願を信受させんが為のものであったのだから、信楽開発の一念が諸仏のお語にしたがった時でもある。\n\"堕つるに疑いなし\"\"助かるに疑いなし\"のこの境地は、機法二種一具の深信だから、四重の破人にあおうとも信心が動乱しない故、\"外の雑縁さらになし\"と、聖人は喝破なされたのである。","href":"/qa/2-48?open=hitorigoto&hitorigotoId=54","タイトル":"願と教と仏語","本文":"**「利他の信楽うるひとは　願に相応するゆえに　教と仏語にしたがえば　外の雑縁さらになし」（高僧和讃）**\n\n願は弥陀の本願、教は釈迦の教え、仏語とは諸仏のお言葉である。\n**「唯除五逆誹謗正法」** と切り堕とされた劣機が **「若不生者不取正覚」** の弘誓の強縁によって、 **至心信楽欲生我国** の大満足に生かされたときが、阿弥陀仏の本願に相応した時。\nその無碍の世界まで調機誘引する為の釈尊一代の教えであったのだから、その時が釈迦の教えにしたがったのだ。\n十方諸仏の証誠は、この極難信の弥陀の本願を信受させんが為のものであったのだから、信楽開発の一念が諸仏のお語にしたがった時でもある。\n\"堕つるに疑いなし\"\"助かるに疑いなし\"のこの境地は、機法二種一具の深信だから、四重の破人にあおうとも信心が動乱しない故、\"外の雑縁さらになし\"と、聖人は喝破なされたのである。","教学聖典id":"2-48"},{"id":"55","globalId":"hitorigoto:55","sortOrder":"000054","kind":"hitorigoto","title":"真と仮","content":"真と仮\n**「如来大悲の恩徳は　身を粉にしても報ずべし　師主知識の恩徳も　骨を砕きても謝すべし」（和讃）**\n\n**「誠に仏恩の深重なるを念じて、人倫の哢言を恥じず」（教行信証信巻）**\n\n**「真仮を知らざるに由りて、如来広大の恩徳を迷失す」（教行信証真仏土巻）**\n\n**「然るに、諸寺の釈門、教に昏くして、真仮の門戸を知らず」（教行信証化身土巻）**\n\n無上仏に、一念で救い摂られると、〝なぜ生きるか〟の真（真実）と、〝どう生きるか〟の仮（方便）が同時に知らされ、深重なる仏恩に感泣する。\n偏に人倫の哢言を恥じず、身を粉に骨砕きても真仮を鮮明にせずにはおれぬ。\n真仮のほかに仏教はない。\n真仮を知らぬから、如来広大の恩徳を迷失するのだ。\n世に多くの寺や僧があっても仏教に昏く、真仮のイロハも分からぬ者ばかり。\nまことに悲しき現状である。","href":"/qa/6-15?open=hitorigoto&hitorigotoId=55","タイトル":"真と仮","本文":"**「如来大悲の恩徳は　身を粉にしても報ずべし　師主知識の恩徳も　骨を砕きても謝すべし」（和讃）**\n\n**「誠に仏恩の深重なるを念じて、人倫の哢言を恥じず」（教行信証信巻）**\n\n**「真仮を知らざるに由りて、如来広大の恩徳を迷失す」（教行信証真仏土巻）**\n\n**「然るに、諸寺の釈門、教に昏くして、真仮の門戸を知らず」（教行信証化身土巻）**\n\n無上仏に、一念で救い摂られると、〝なぜ生きるか〟の真（真実）と、〝どう生きるか〟の仮（方便）が同時に知らされ、深重なる仏恩に感泣する。\n偏に人倫の哢言を恥じず、身を粉に骨砕きても真仮を鮮明にせずにはおれぬ。\n真仮のほかに仏教はない。\n真仮を知らぬから、如来広大の恩徳を迷失するのだ。\n世に多くの寺や僧があっても仏教に昏く、真仮のイロハも分からぬ者ばかり。\nまことに悲しき現状である。","教学聖典id":"6-15, 6-16, 7-29, 7-4"},{"id":"56","globalId":"hitorigoto:56","sortOrder":"000055","kind":"hitorigoto","title":"人生の目的（歎異鈔一章）","content":"人生の目的（歎異鈔一章）\n**「『弥陀の誓願不思議に助けられ参らせて、往生をば遂ぐるなり』と信じて、『念仏申さん』と思いたつ心の発る時、即ち摂取不捨の利益にあずけしめ給うなり。弥陀の本願には、老少善悪の人をえらばれず、ただ信心を要とすと知るべし。その故は、罪悪深重・煩悩熾盛の衆生を助けんが為の願にてまします。しかれば本願を信ぜんには他の善も要にあらず、念仏にまさるべき善なきが故に、悪をもおそるべからず、弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきが故に」と云々。（歎異抄第一章）**\n\n『歎異抄』十八章は、この第一章に収まる。\n古今の人類が探求して止まぬ人生の目的を「摂取不捨の利益」と喝破し、弥陀の誓願不思議に不思議と助けられ「『念仏申さん』と思いたつ心の発る時」それは達成できる。\n罪悪深重・煩悩熾盛の者を目当の本願だから、弥陀に救われたら「他の善も要にあらず」「悪をもおそるべからず」の無碍の一道へ、誰でも雄飛できる、と道破されている。\nまさに世界の光である。","href":"/qa/4-23?open=hitorigoto&hitorigotoId=56","タイトル":"人生の目的（歎異鈔一章）","本文":"**「『弥陀の誓願不思議に助けられ参らせて、往生をば遂ぐるなり』と信じて、『念仏申さん』と思いたつ心の発る時、即ち摂取不捨の利益にあずけしめ給うなり。弥陀の本願には、老少善悪の人をえらばれず、ただ信心を要とすと知るべし。その故は、罪悪深重・煩悩熾盛の衆生を助けんが為の願にてまします。しかれば本願を信ぜんには他の善も要にあらず、念仏にまさるべき善なきが故に、悪をもおそるべからず、弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきが故に」と云々。（歎異抄第一章）**\n\n『歎異抄』十八章は、この第一章に収まる。\n古今の人類が探求して止まぬ人生の目的を「摂取不捨の利益」と喝破し、弥陀の誓願不思議に不思議と助けられ「『念仏申さん』と思いたつ心の発る時」それは達成できる。\n罪悪深重・煩悩熾盛の者を目当の本願だから、弥陀に救われたら「他の善も要にあらず」「悪をもおそるべからず」の無碍の一道へ、誰でも雄飛できる、と道破されている。\nまさに世界の光である。","教学聖典id":"4-23"},{"id":"57","globalId":"hitorigoto:57","sortOrder":"000056","kind":"hitorigoto","title":"疑念（憤激の聖人）","content":"疑念（憤激の聖人）\n**「もし然らば南都・北嶺にもゆゆしき学生達多く在せられて候なれば、彼の人々にも会いたてまつりて、往生の要よくよく聞かるべきなり」（歎異鈔二章）**\n\n聖人一人を慕って身命をも省みず、十余ヵ国の境を越えて、訪ね来た関東の親鸞学徒にも、どうにも晴れぬ根深い疑念があった。\n「聖人の教えのほかに、何か助かる近道があるのではなかろうか。ダマされているのではなかろうか」\n自力不信の、そんな彼らに聖人は、厳然と言い放たれた。\n「ならば、奈良や京都には由々しき学者達が沢山おられるそうだから、それらを訪ねて後生助かる道を聞かれたらよかろう」\nそれにしても聖人には、常に批判の対象だった「仏教に昏く真仮の門戸も知らぬ諸寺の釈門ら」を「由々しき学者達」とは、なんたる皮肉ぞ。\n聖人のやるかたない憤激に震える。","href":"/qa/7-4?open=hitorigoto&hitorigotoId=57","タイトル":"疑念（憤激の聖人）","本文":"**「もし然らば南都・北嶺にもゆゆしき学生達多く在せられて候なれば、彼の人々にも会いたてまつりて、往生の要よくよく聞かるべきなり」（歎異鈔二章）**\n\n聖人一人を慕って身命をも省みず、十余ヵ国の境を越えて、訪ね来た関東の親鸞学徒にも、どうにも晴れぬ根深い疑念があった。\n「聖人の教えのほかに、何か助かる近道があるのではなかろうか。ダマされているのではなかろうか」\n自力不信の、そんな彼らに聖人は、厳然と言い放たれた。\n「ならば、奈良や京都には由々しき学者達が沢山おられるそうだから、それらを訪ねて後生助かる道を聞かれたらよかろう」\nそれにしても聖人には、常に批判の対象だった「仏教に昏く真仮の門戸も知らぬ諸寺の釈門ら」を「由々しき学者達」とは、なんたる皮肉ぞ。\n聖人のやるかたない憤激に震える。","教学聖典id":"7-4"},{"id":"58","globalId":"hitorigoto:58","sortOrder":"000057","kind":"hitorigoto","title":"知らん","content":"知らん\n**「親鸞におきては、『ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべし』と、よき人の仰を被りて、信ずるほかに別の子細なきなり。念仏は、まことに浄土に生るる因にてやはんべらん、また地獄に堕つる業にてやはんべらん。総じて、もって存知せざるなり」（歎異鈔二章）**\n\n「念仏は、極楽に生れる因やら、地獄に堕つる業やら、親鸞一切知らん、と聖人も仰有っているではないか、われわれが分かる筈がない、知らんでよいのだ」\nと平然と教えられているが、知らんは知らんでも、知らんようが全く違うことを知らんのである。\n疑いようのない真実を知らされ、そんなことに一切用事がなくなったことを聖人は「知らん」と言われているのだ。\n余りにも明らかなことを聞かれると世間でも、もどかしい言葉よりも「知らんわい」と答えることがあるではないか。","href":"/hitorigoto?open=hitorigoto&hitorigotoId=58","タイトル":"知らん","本文":"**「親鸞におきては、『ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべし』と、よき人の仰を被りて、信ずるほかに別の子細なきなり。念仏は、まことに浄土に生るる因にてやはんべらん、また地獄に堕つる業にてやはんべらん。総じて、もって存知せざるなり」（歎異鈔二章）**\n\n「念仏は、極楽に生れる因やら、地獄に堕つる業やら、親鸞一切知らん、と聖人も仰有っているではないか、われわれが分かる筈がない、知らんでよいのだ」\nと平然と教えられているが、知らんは知らんでも、知らんようが全く違うことを知らんのである。\n疑いようのない真実を知らされ、そんなことに一切用事がなくなったことを聖人は「知らん」と言われているのだ。\n余りにも明らかなことを聞かれると世間でも、もどかしい言葉よりも「知らんわい」と答えることがあるではないか。","教学聖典id":""},{"id":"59","globalId":"hitorigoto:59","sortOrder":"000058","kind":"hitorigoto","title":"追善供養","content":"追善供養\n**「親鸞は父母孝養の為とて、一遍にても念仏まうしたること、いまだ候わず」（歎異鈔第五章）**\n\n覚如上人は長子存覚が、この親鸞聖人の教えを破る者として義別されている。\n存覚は『報恩記』などで、\n「孝養父母は百行の本なり。生ける時には孝順を先として養育の力をはげますべし。死せんの後には追善を本として、報恩のつとめをいたすべし」\n“父母へ孝行することは、すべての行為の基本である。父母の死後は追善供養を根本とする仏事を大切にして、親の恩に報いるつとめを果すべきである”\nとして、\n“追善のつとめには念仏第一なり”\nとまで言い切っている。\nこれでは、葬式や年忌法要など、先祖への追善供養の自力廻向を徹底排斥された聖人の精神を、明らかに破壊するものであるから、断固破門されたのもけだし当然のことであろう。","href":"/qa/7-45?open=hitorigoto&hitorigotoId=59","タイトル":"追善供養","本文":"**「親鸞は父母孝養の為とて、一遍にても念仏まうしたること、いまだ候わず」（歎異鈔第五章）**\n\n覚如上人は長子存覚が、この親鸞聖人の教えを破る者として義別されている。\n存覚は『報恩記』などで、\n「孝養父母は百行の本なり。生ける時には孝順を先として養育の力をはげますべし。死せんの後には追善を本として、報恩のつとめをいたすべし」\n“父母へ孝行することは、すべての行為の基本である。父母の死後は追善供養を根本とする仏事を大切にして、親の恩に報いるつとめを果すべきである”\nとして、\n“追善のつとめには念仏第一なり”\nとまで言い切っている。\nこれでは、葬式や年忌法要など、先祖への追善供養の自力廻向を徹底排斥された聖人の精神を、明らかに破壊するものであるから、断固破門されたのもけだし当然のことであろう。","教学聖典id":"7-48, 7-45"},{"id":"6","globalId":"hitorigoto:6","sortOrder":"000005","kind":"hitorigoto","title":"有無同然","content":"有無同然\n**「田あれば田を憂え、宅あれば宅を憂う。牛馬・六畜・奴婢・銭財・衣食・什物、また共に之を憂う。有無同じく然り」（大無量寿経）**\n\n“有れば有ることで苦しみ、無ければ無いことを苦しむ。\n有れば有ることで憂い、無ければ無いことを憂う。\n親・兄弟・妻子・田畑・財宝・金・名誉・地位など、それは一切に通ずる。\n故に憂いは、有る者も無い者も同じなのだ”\n釈尊の、人生の手段と目的を峻別する、二千六百年前の道破である。\n苦しむ為に生きる人など何処にもいない。\n政治経済科学医学芸術等、人間すべ総ての営みは、無から有への努力に他ならぬ。\nそれが唯一の人生と疑わぬ人々には **“有無同然”** はきちがい狂人の寝言にすぎないだろう。\nだが、この真実が受領されぬ限り全人類は、“人の一生は重荷を背負うて”の家康の悲劇を、永久に繰り返す他はないのだ。","href":"/qa/8-10?open=hitorigoto&hitorigotoId=6","タイトル":"有無同然","本文":"**「田あれば田を憂え、宅あれば宅を憂う。牛馬・六畜・奴婢・銭財・衣食・什物、また共に之を憂う。有無同じく然り」（大無量寿経）**\n\n“有れば有ることで苦しみ、無ければ無いことを苦しむ。\n有れば有ることで憂い、無ければ無いことを憂う。\n親・兄弟・妻子・田畑・財宝・金・名誉・地位など、それは一切に通ずる。\n故に憂いは、有る者も無い者も同じなのだ”\n釈尊の、人生の手段と目的を峻別する、二千六百年前の道破である。\n苦しむ為に生きる人など何処にもいない。\n政治経済科学医学芸術等、人間すべ総ての営みは、無から有への努力に他ならぬ。\nそれが唯一の人生と疑わぬ人々には **“有無同然”** はきちがい狂人の寝言にすぎないだろう。\nだが、この真実が受領されぬ限り全人類は、“人の一生は重荷を背負うて”の家康の悲劇を、永久に繰り返す他はないのだ。","教学聖典id":"8-10"},{"id":"60","globalId":"hitorigoto:60","sortOrder":"000059","kind":"hitorigoto","title":"同朋愛（弟子一人もなし）","content":"同朋愛（弟子一人もなし）\n**「専修念仏のともがらの『わが弟子・ひとの弟子』という相論の候らんこと、もっての外の子細なり。親鸞は弟子一人ももたず候。その故は、わが計にて人に念仏を申させ候はばこそ、弟子にても候はめ。ひとえに弥陀の御催にあづかりて念仏申し候人を「わが弟子」と申すこと、極めたる荒涼のことなり」（歎異鈔）**\n\nあの階級対立の厳しい時代にあって、御同朋御同行よと全人類に呼びかけられた親鸞聖人。\n因縁あって人界に生れ合せた一切の人々と、共に出世の本懐道を進みたいの同朋愛に燃えられた聖人。\nともすればその愛ゆえに、人師めいた驕る心を知らされて **「小慈小悲もなき身にて、有情利益は思うまじ」**  **「親鸞は弟子一人も持たず候」** と自戒し、「ひたすら無上仏の呼び声をしるべに共に進もうではありませんか」と呼びかけておられるのである。","href":"/qa/2-30?open=hitorigoto&hitorigotoId=60","タイトル":"同朋愛（弟子一人もなし）","本文":"**「専修念仏のともがらの『わが弟子・ひとの弟子』という相論の候らんこと、もっての外の子細なり。親鸞は弟子一人ももたず候。その故は、わが計にて人に念仏を申させ候はばこそ、弟子にても候はめ。ひとえに弥陀の御催にあづかりて念仏申し候人を「わが弟子」と申すこと、極めたる荒涼のことなり」（歎異鈔）**\n\nあの階級対立の厳しい時代にあって、御同朋御同行よと全人類に呼びかけられた親鸞聖人。\n因縁あって人界に生れ合せた一切の人々と、共に出世の本懐道を進みたいの同朋愛に燃えられた聖人。\nともすればその愛ゆえに、人師めいた驕る心を知らされて **「小慈小悲もなき身にて、有情利益は思うまじ」**  **「親鸞は弟子一人も持たず候」** と自戒し、「ひたすら無上仏の呼び声をしるべに共に進もうではありませんか」と呼びかけておられるのである。","教学聖典id":"3-17, 2-30"},{"id":"61","globalId":"hitorigoto:61","sortOrder":"000060","kind":"hitorigoto","title":"念仏者（一）","content":"念仏者（一）\n**「念仏者は無碍の一道なり。そのいわれ如何とならば、信心の行者には天神・地祇も敬伏し、魔界・外道も障碍することなし。罪悪も業報も感ずることあたわず、諸善も及ぶことなき故に無碍の一道なり」（歎異抄）**\n\n涙にも嬉し涙あり、悔やし涙あり、悲し涙ありで、涙を流している者にもいろいろあるように、念仏称えている人にもいろいろある。\n諸善の中で勝れた念仏だと思って称えている万行随一の念仏者もあれば、諸善などとはケタちがいの大功徳の念仏だと信じて専称している万行超過の念仏者もいる。\nこれらはすべて自力の念仏者だが、誓願不思議に不思議と助けられた嬉しさに、称えずにおれぬ自然法爾の念仏者もある。\n親鸞聖人が念仏者と言われているのは、この自然法爾の他力の念仏者のことであり、一切の碍りがなくなるから無碍の一道なりと言われたのだ。","href":"/qa/2-47?open=hitorigoto&hitorigotoId=61","タイトル":"念仏者（一）","本文":"**「念仏者は無碍の一道なり。そのいわれ如何とならば、信心の行者には天神・地祇も敬伏し、魔界・外道も障碍することなし。罪悪も業報も感ずることあたわず、諸善も及ぶことなき故に無碍の一道なり」（歎異抄）**\n\n涙にも嬉し涙あり、悔やし涙あり、悲し涙ありで、涙を流している者にもいろいろあるように、念仏称えている人にもいろいろある。\n諸善の中で勝れた念仏だと思って称えている万行随一の念仏者もあれば、諸善などとはケタちがいの大功徳の念仏だと信じて専称している万行超過の念仏者もいる。\nこれらはすべて自力の念仏者だが、誓願不思議に不思議と助けられた嬉しさに、称えずにおれぬ自然法爾の念仏者もある。\n親鸞聖人が念仏者と言われているのは、この自然法爾の他力の念仏者のことであり、一切の碍りがなくなるから無碍の一道なりと言われたのだ。","教学聖典id":"2-47, 7-25"},{"id":"62","globalId":"hitorigoto:62","sortOrder":"000061","kind":"hitorigoto","title":"念仏者（二）","content":"念仏者（二）\n**「念仏者は無碍の一道なり。そのいわれ如何とならば、信心の行者には天神・地祇も敬伏し、魔界・外道も障碍することなし。罪悪も業報も感ずることあたわず、諸善も及ぶことなき故に無碍の一道なり」（歎異鈔第七章）**\n\n“天神地祇も敬伏し”とは、道俗から疑謗破滅や批難攻撃されなくなるということでもなければ、みなから尊敬され褒めたたえられるということでもない。\nどんな批難攻撃にも** “唯、仏恩の深重なることを念じて、人倫の哢言を恥じず” **と、真実開顕に猛進するから無碍の一道であり、天神地祇も敬伏するのだ。\n“魔界外道も障碍することなし”とは、不幸や災難悪事がなくなるということではない。\n極悪最下の身は固(もと)より悪果を受けて当然だが **“衆禍の波転じ”** て無上の使命遂行を、何者も阻止することのできないことをいうのである。\n聖人のご一生を見ればそれは明白だ。","href":"/qa/2-47?open=hitorigoto&hitorigotoId=62","タイトル":"念仏者（二）","本文":"**「念仏者は無碍の一道なり。そのいわれ如何とならば、信心の行者には天神・地祇も敬伏し、魔界・外道も障碍することなし。罪悪も業報も感ずることあたわず、諸善も及ぶことなき故に無碍の一道なり」（歎異鈔第七章）**\n\n“天神地祇も敬伏し”とは、道俗から疑謗破滅や批難攻撃されなくなるということでもなければ、みなから尊敬され褒めたたえられるということでもない。\nどんな批難攻撃にも** “唯、仏恩の深重なることを念じて、人倫の哢言を恥じず” **と、真実開顕に猛進するから無碍の一道であり、天神地祇も敬伏するのだ。\n“魔界外道も障碍することなし”とは、不幸や災難悪事がなくなるということではない。\n極悪最下の身は固(もと)より悪果を受けて当然だが **“衆禍の波転じ”** て無上の使命遂行を、何者も阻止することのできないことをいうのである。\n聖人のご一生を見ればそれは明白だ。","教学聖典id":"2-47, 6-16"},{"id":"63","globalId":"hitorigoto:63","sortOrder":"000062","kind":"hitorigoto","title":"信仰の程度","content":"信仰の程度\n**「親鸞もこの不審ありつるに、唯円房おなじ心にてありけり。よくよく案じみれば、天に踊り地に踊るほどに喜ぶべきことを喜ばぬにて、いよいよ往生は一定と思いたまうべきなり。喜ぶべき心を抑えて喜ばせざるは煩悩の所為なり、云々」（歎異鈔第九章）**\n\n“聖人さまさえ喜べぬ”と言われているのだから、喜べないのが当り前と、得意然(ぜん)と教える者ばかり。\n“広大な世界に摂取されてもどこどこまでも喜ばぬ不実者じゃのう唯円房。こんな救いようのない凡夫が弥陀の独り子だとは、なんと頼もしいことか”\nと、信後の懺悔のお言葉を、信前に引きずり落して後生の不安をゴマ化す道具に使っているのとは、ケタが違うのだ。\n知識の信仰の程度でお聖教のご文は、生きもすれば、死にもするから聖人は、 **“善知識にあうことも教うることもなお難し”** と言われているのだ。","href":"/qa/2-29?open=hitorigoto&hitorigotoId=63","タイトル":"信仰の程度","本文":"**「親鸞もこの不審ありつるに、唯円房おなじ心にてありけり。よくよく案じみれば、天に踊り地に踊るほどに喜ぶべきことを喜ばぬにて、いよいよ往生は一定と思いたまうべきなり。喜ぶべき心を抑えて喜ばせざるは煩悩の所為なり、云々」（歎異鈔第九章）**\n\n“聖人さまさえ喜べぬ”と言われているのだから、喜べないのが当り前と、得意然(ぜん)と教える者ばかり。\n“広大な世界に摂取されてもどこどこまでも喜ばぬ不実者じゃのう唯円房。こんな救いようのない凡夫が弥陀の独り子だとは、なんと頼もしいことか”\nと、信後の懺悔のお言葉を、信前に引きずり落して後生の不安をゴマ化す道具に使っているのとは、ケタが違うのだ。\n知識の信仰の程度でお聖教のご文は、生きもすれば、死にもするから聖人は、 **“善知識にあうことも教うることもなお難し”** と言われているのだ。","教学聖典id":"2-29, 5-47"},{"id":"64","globalId":"hitorigoto:64","sortOrder":"000063","kind":"hitorigoto","title":"廃立","content":"廃立\n**「それについて、三経の安心あり。その中に『大経』をもって真実とせらる。『大経』の中には第十八の願をもって本とす。十八の願にとりてはまた願成就をもって至極とす」（改邪鈔）**\n\n仏教の真髄である浄土真宗の教えは、親鸞聖人によって大成され、三代目覚如上人によって要約され、八代目蓮如上人によって全国に普及された。\nこれら善知識方に一貫するものが廃立の教えである。\n親鸞聖人は『教行信証』に『大無量寿経』『観無量寿経』『阿弥陀経』の三通りの安心を示され、夫々、真と仮とを分判されて、結局『大経』の第十八願成就文の安心のみを真実となされた。\n覚如上人は『改邪鈔』に、 **「当流には幾度も廃立を先とせり」** と言われ、蓮如上人も **「もろもろの雑行雑修自力の心をふりすてて、弥陀たのめ」** と廃立を徹底されている。\nこの廃立が立たねば、迷信邪信偽信であり、真実の信心ではない。","href":"/qa/1-10?open=hitorigoto&hitorigotoId=64","タイトル":"廃立","本文":"**「それについて、三経の安心あり。その中に『大経』をもって真実とせらる。『大経』の中には第十八の願をもって本とす。十八の願にとりてはまた願成就をもって至極とす」（改邪鈔）**\n\n仏教の真髄である浄土真宗の教えは、親鸞聖人によって大成され、三代目覚如上人によって要約され、八代目蓮如上人によって全国に普及された。\nこれら善知識方に一貫するものが廃立の教えである。\n親鸞聖人は『教行信証』に『大無量寿経』『観無量寿経』『阿弥陀経』の三通りの安心を示され、夫々、真と仮とを分判されて、結局『大経』の第十八願成就文の安心のみを真実となされた。\n覚如上人は『改邪鈔』に、 **「当流には幾度も廃立を先とせり」** と言われ、蓮如上人も **「もろもろの雑行雑修自力の心をふりすてて、弥陀たのめ」** と廃立を徹底されている。\nこの廃立が立たねば、迷信邪信偽信であり、真実の信心ではない。","教学聖典id":"3-34, 1-10, 6-25, 7-30"},{"id":"65","globalId":"hitorigoto:65","sortOrder":"000064","kind":"hitorigoto","title":"善知識","content":"善知識\n**「総じていう時は、真の善知識というは諸仏菩薩なり。別していう時は、我らに法を与えたまえる人なり。（乃至）また正しく自ら法を説きて聞かする人ならねども、法を聞かす縁となる人をも善知識と名く。（乃至）しかれば、仏法を聞きて生死を離るべき源は、ただ善知識なり」（浄土真要鈔）**\n\n善知識と聞けば、緋(ひ)の衣をまとった本願寺の法主や門主を思いだす人が多いだろう。\n仏法を正しく説き伝える人を、みな善知識と言うのであるが、法を説かねば、どんな地位や立場でも、身に何を付けようと善知識とは言われない。\n私に真の仏法を聞かす縁となる方も善知識であると教えられている。","href":"/qa/9-13?open=hitorigoto&hitorigotoId=65","タイトル":"善知識","本文":"**「総じていう時は、真の善知識というは諸仏菩薩なり。別していう時は、我らに法を与えたまえる人なり。（乃至）また正しく自ら法を説きて聞かする人ならねども、法を聞かす縁となる人をも善知識と名く。（乃至）しかれば、仏法を聞きて生死を離るべき源は、ただ善知識なり」（浄土真要鈔）**\n\n善知識と聞けば、緋(ひ)の衣をまとった本願寺の法主や門主を思いだす人が多いだろう。\n仏法を正しく説き伝える人を、みな善知識と言うのであるが、法を説かねば、どんな地位や立場でも、身に何を付けようと善知識とは言われない。\n私に真の仏法を聞かす縁となる方も善知識であると教えられている。","教学聖典id":"9-13"},{"id":"66","globalId":"hitorigoto:66","sortOrder":"000065","kind":"hitorigoto","title":"なぜ観音勢至を除くか","content":"なぜ観音勢至を除くか\n**「仏、阿難及び韋提希に告げたまわく、諦に聴け諦に聴け。仏当に汝が為に苦悩を除く法を分別し、解説すべし。是の語を説きたまう時、無量寿仏、空中に住立し、観世音・大勢至、是の二大士左右に侍立せり」（観無量寿経）**\n\n**「いまの行者、あやまって観音勢至につかうることなかれ。直に本仏を仰ぐべし」（御伝鈔）**\n\n**「一向専念の義は、往生の肝腑、自宗の骨目なり」（御伝鈔）**\n\nこのように空中に立たれた阿弥陀仏には、観音勢至が左右に侍立すると説かれてあるのに親鸞聖人は、その観音勢至を取り除いて、弥陀一仏となされている。\n観音勢至といっても、阿弥陀仏の慈悲と智慧の表れなのに、観音・勢至と分けておくと、阿弥陀仏以外の者のように誤って、観音勢至に向って祈祷する、迷信におちいらないようにとのご配慮からである。","href":"/qa/3-6?open=hitorigoto&hitorigotoId=66","タイトル":"なぜ観音勢至を除くか","本文":"**「仏、阿難及び韋提希に告げたまわく、諦に聴け諦に聴け。仏当に汝が為に苦悩を除く法を分別し、解説すべし。是の語を説きたまう時、無量寿仏、空中に住立し、観世音・大勢至、是の二大士左右に侍立せり」（観無量寿経）**\n\n**「いまの行者、あやまって観音勢至につかうることなかれ。直に本仏を仰ぐべし」（御伝鈔）**\n\n**「一向専念の義は、往生の肝腑、自宗の骨目なり」（御伝鈔）**\n\nこのように空中に立たれた阿弥陀仏には、観音勢至が左右に侍立すると説かれてあるのに親鸞聖人は、その観音勢至を取り除いて、弥陀一仏となされている。\n観音勢至といっても、阿弥陀仏の慈悲と智慧の表れなのに、観音・勢至と分けておくと、阿弥陀仏以外の者のように誤って、観音勢至に向って祈祷する、迷信におちいらないようにとのご配慮からである。","教学聖典id":"3-6, 6-38"},{"id":"67","globalId":"hitorigoto:67","sortOrder":"000066","kind":"hitorigoto","title":"雑行","content":"雑行\n**「もろもろの雑行をなげすてて………」（御文章）**\n\n阿弥陀仏の浄土に往生するのは、弥陀の名号の独り働きだから、諸善や六度万行をやる必要がない。\n〝雑行を捨てよ〟とはこのことだと教えられている。\n後生の一大事は、名号不思議を聞信する一つで解決するが、暮らしの実態面はどうか。\n仏縁のない人達でさえ、悪を慎み善を励んでいるのに、仏教の根幹、因果の道理を無視して、善を修する必要がないと言っているのが真宗の惨状である。\n在家よりも悲劇や災難が多発して業苦に責めたてられているのは、狂いない因果の道理の実証である。\n修善を往生の資助にしようとするから雑毒の善とか、虚仮の行と嫌われ、その機執を捨てよ、と言われているのだ。\n原因は厳しく結果を開く。\n善を実行しなければ、絶対に善果は獲られない。","href":"/qa/2-25?open=hitorigoto&hitorigotoId=67","タイトル":"雑行","本文":"**「もろもろの雑行をなげすてて………」（御文章）**\n\n阿弥陀仏の浄土に往生するのは、弥陀の名号の独り働きだから、諸善や六度万行をやる必要がない。\n〝雑行を捨てよ〟とはこのことだと教えられている。\n後生の一大事は、名号不思議を聞信する一つで解決するが、暮らしの実態面はどうか。\n仏縁のない人達でさえ、悪を慎み善を励んでいるのに、仏教の根幹、因果の道理を無視して、善を修する必要がないと言っているのが真宗の惨状である。\n在家よりも悲劇や災難が多発して業苦に責めたてられているのは、狂いない因果の道理の実証である。\n修善を往生の資助にしようとするから雑毒の善とか、虚仮の行と嫌われ、その機執を捨てよ、と言われているのだ。\n原因は厳しく結果を開く。\n善を実行しなければ、絶対に善果は獲られない。","教学聖典id":"8-37, 2-25"},{"id":"67-2","globalId":"hitorigoto:67-2","sortOrder":"000101","kind":"hitorigoto","title":"雑行雑修","content":"雑行雑修\n**「もろもろの雑行雑修自力の心をふり捨てて………」（御文章）**\n\n阿弥陀仏の浄土に往生するのは、弥陀の名号の独り働きだから、諸善や六度万行をやる必要がない。\n\"雑行雑修を捨てよ\"とはこのことだと教えられている。\n後生の一大事は、名号不思議を聞信する一つで解決するが、暮らしの実態面はどうか。\n仏縁のない人達でさえ、悪を慎み善を励んでいるのに、仏教の根幹、因果の道理を無視して、善を修する必要がないと言っているのが真宗の惨状である。\n在家よりも悲劇や災難が多発して業苦に攻めたてられているのは、狂いない因果の道理の実証である。\n修善を往生の資助にしようとするから雑毒の善とか、虚仮の行と嫌われ、その機執を捨てよ、と言われているのだ。\n原因は厳しく結果を開く。\n善を実行しなければ、絶対に善果は獲られない。","href":"/qa/2-25?open=hitorigoto&hitorigotoId=67-2","タイトル":"雑行雑修","本文":"**「もろもろの雑行雑修自力の心をふり捨てて………」（御文章）**\n\n阿弥陀仏の浄土に往生するのは、弥陀の名号の独り働きだから、諸善や六度万行をやる必要がない。\n\"雑行雑修を捨てよ\"とはこのことだと教えられている。\n後生の一大事は、名号不思議を聞信する一つで解決するが、暮らしの実態面はどうか。\n仏縁のない人達でさえ、悪を慎み善を励んでいるのに、仏教の根幹、因果の道理を無視して、善を修する必要がないと言っているのが真宗の惨状である。\n在家よりも悲劇や災難が多発して業苦に攻めたてられているのは、狂いない因果の道理の実証である。\n修善を往生の資助にしようとするから雑毒の善とか、虚仮の行と嫌われ、その機執を捨てよ、と言われているのだ。\n原因は厳しく結果を開く。\n善を実行しなければ、絶対に善果は獲られない。","教学聖典id":"7-30, 2-25"},{"id":"68","globalId":"hitorigoto:68","sortOrder":"000067","kind":"hitorigoto","title":"タノミ","content":"タノミ\n**「まことに死せんときは、かねてタノミおきつる妻子も財宝も、わが身には一も相添うことあるべからず」（御文章一帖十一通）**\n\n**「末代無智の在家止住の男女たらん輩は、心を一にして、阿弥陀仏を深くタノミまいらせて……」（御文章五帖一通）**\n\n**「誰の人も、はやく後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏を深くタノミまいらせて、念仏申すべきものなり」（御文章五帖十六通）**\n\n\"かねてタノミおきつる妻子も財宝も我身には一も相添うことあるべからず\"とは、病気になれば妻子が介抱してくれよう、財宝さえあれば衣食住の心配はなかろうと、日頃あて力にはしているが、いざ死ぬ時に何一つ力になるものがあろうぞ、とのこと。\n何処に妻子や財宝に\"どうか私を可愛がって下され。お願い申す\"と、すがりついている者があろうか。\n「阿弥陀仏を深くタノミまいらせて」のご教示は、断じて自力タノミではないのだ。","href":"/qa/1-36?open=hitorigoto&hitorigotoId=68","タイトル":"タノミ","本文":"**「まことに死せんときは、かねてタノミおきつる妻子も財宝も、わが身には一も相添うことあるべからず」（御文章一帖十一通）**\n\n**「末代無智の在家止住の男女たらん輩は、心を一にして、阿弥陀仏を深くタノミまいらせて……」（御文章五帖一通）**\n\n**「誰の人も、はやく後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏を深くタノミまいらせて、念仏申すべきものなり」（御文章五帖十六通）**\n\n\"かねてタノミおきつる妻子も財宝も我身には一も相添うことあるべからず\"とは、病気になれば妻子が介抱してくれよう、財宝さえあれば衣食住の心配はなかろうと、日頃あて力にはしているが、いざ死ぬ時に何一つ力になるものがあろうぞ、とのこと。\n何処に妻子や財宝に\"どうか私を可愛がって下され。お願い申す\"と、すがりついている者があろうか。\n「阿弥陀仏を深くタノミまいらせて」のご教示は、断じて自力タノミではないのだ。","教学聖典id":"1-36, 4-49, 7-30"},{"id":"69","globalId":"hitorigoto:69","sortOrder":"000068","kind":"hitorigoto","title":"魚に与えよ（閉眼せば）","content":"魚に与えよ（閉眼せば）\n**「〝親鸞閉眼せば賀茂河にいれて魚に與うべし〟と云々。これ即ち、この肉身を軽んじて、仏法の信心を本とすべき由をあらはしまします故なり。これをもって思うに、いよいよ葬喪を一大事とすべきにあらず。もっとも停止すべし」（改邪鈔）**\n\n焼けば灰になる肉体の後始末よりも、永劫浮沈の魂の解決こそ急がねばならぬという、覚如上人の教誡が第一であろうが、なんと今まで多くの殺生してきたことか。\n食うたら食われるのが因果の道理、せめて死んだら食べて貰おう、の深信因果もあったにちがいない。\nまた、五兆の願行を踏みにじって平気な悪魔、八裂にされても文句の言えない極悪人に、葬式や墓などとんでもない、の深い懺悔もあったのではなかろうか。\n南無阿弥陀仏と一体の肉体を食べて、いずれの世にか仏縁あれかしの度衆生心もあったと拝察される。","href":"/qa/7-45?open=hitorigoto&hitorigotoId=69","タイトル":"魚に与えよ（閉眼せば）","本文":"**「〝親鸞閉眼せば賀茂河にいれて魚に與うべし〟と云々。これ即ち、この肉身を軽んじて、仏法の信心を本とすべき由をあらはしまします故なり。これをもって思うに、いよいよ葬喪を一大事とすべきにあらず。もっとも停止すべし」（改邪鈔）**\n\n焼けば灰になる肉体の後始末よりも、永劫浮沈の魂の解決こそ急がねばならぬという、覚如上人の教誡が第一であろうが、なんと今まで多くの殺生してきたことか。\n食うたら食われるのが因果の道理、せめて死んだら食べて貰おう、の深信因果もあったにちがいない。\nまた、五兆の願行を踏みにじって平気な悪魔、八裂にされても文句の言えない極悪人に、葬式や墓などとんでもない、の深い懺悔もあったのではなかろうか。\n南無阿弥陀仏と一体の肉体を食べて、いずれの世にか仏縁あれかしの度衆生心もあったと拝察される。","教学聖典id":"7-45"},{"id":"7","globalId":"hitorigoto:7","sortOrder":"000006","kind":"hitorigoto","title":"後生の一大事","content":"後生の一大事\n**「呼吸之頃即ち是れ来生なり。一たび人身を失いぬれば、萬劫にも復らず。此の時悟らざれば、仏、衆生を如何したまわん。願わくは深く無常を念じて、徒に後悔を残すこと勿れ」（教行信証行巻）**\n\n一息つがざれば後生である。\n永遠のチャンスは、今しかない。\n只今救われねば、永久に後悔する後生を迎えねばならぬ。\n永久に後悔する後生を一大事という。\nこの一大事の解決を急げ、との御文である。\n死んで極楽へ往くことが後生の一大事だと言う人がいる。\n『教行信証』の御教示が知らされていない。","href":"/qa/1-44?open=hitorigoto&hitorigotoId=7","タイトル":"後生の一大事","本文":"**「呼吸之頃即ち是れ来生なり。一たび人身を失いぬれば、萬劫にも復らず。此の時悟らざれば、仏、衆生を如何したまわん。願わくは深く無常を念じて、徒に後悔を残すこと勿れ」（教行信証行巻）**\n\n一息つがざれば後生である。\n永遠のチャンスは、今しかない。\n只今救われねば、永久に後悔する後生を迎えねばならぬ。\n永久に後悔する後生を一大事という。\nこの一大事の解決を急げ、との御文である。\n死んで極楽へ往くことが後生の一大事だと言う人がいる。\n『教行信証』の御教示が知らされていない。","教学聖典id":"1-44"},{"id":"70","globalId":"hitorigoto:70","sortOrder":"000069","kind":"hitorigoto","title":"悪人正機（共にある聖人）","content":"悪人正機（共にある聖人）\n**「我が歳きわまりて、安養浄土に還帰すというとも、和歌の浦曲の片男浪の、寄せかけ寄せかけ帰らんに同じ。\n一人居て喜ばは二人と思うべし、二人居て喜ばは三人と思うべし、その一人は親鸞なり」（御臨末の御書）**\n\nよせかけよせかけ来ておられる聖人を、極楽浄土へ追いやっている者ばかり。\n一人居て喜ばは二人と思えと言われても、”それは信心決定の人のこと”と、一人淋しく泣いている。\n一人居て苦しまば二人と思うべし、二人居て悩まば三人と思うべし、その一人は親鸞なり。\n衆生苦悩我苦悩の聖人を忘れている。\n悪人正機、善人あとまわし。\n苦しんでいる者を放置されるはずがない。\n喜びも悲しみも、聖人は共にある。","href":"/qa/2-42?open=hitorigoto&hitorigotoId=70","タイトル":"悪人正機（共にある聖人）","本文":"**「我が歳きわまりて、安養浄土に還帰すというとも、和歌の浦曲の片男浪の、寄せかけ寄せかけ帰らんに同じ。\n一人居て喜ばは二人と思うべし、二人居て喜ばは三人と思うべし、その一人は親鸞なり」（御臨末の御書）**\n\nよせかけよせかけ来ておられる聖人を、極楽浄土へ追いやっている者ばかり。\n一人居て喜ばは二人と思えと言われても、”それは信心決定の人のこと”と、一人淋しく泣いている。\n一人居て苦しまば二人と思うべし、二人居て悩まば三人と思うべし、その一人は親鸞なり。\n衆生苦悩我苦悩の聖人を忘れている。\n悪人正機、善人あとまわし。\n苦しんでいる者を放置されるはずがない。\n喜びも悲しみも、聖人は共にある。","教学聖典id":"2-42, 7-50"},{"id":"71","globalId":"hitorigoto:71","sortOrder":"000070","kind":"hitorigoto","title":"自信","content":"自信\n**「然るに濁世の羣萌、穢悪の含識、乃し九十五種之邪道を出でて、半満・権実之法門に入ると雖も、真なる者は甚だ以て難く、実なる者は甚だ以て希なり。偽なる者は甚だ以て多く、虚なる者は甚だ以て滋し」（化身土巻本）**\n\n〝外道邪教の魔の手から漸く逃れて、有難い仏縁を結んでいても真実の仏法を知らない者ばかり。真実を体得した親鸞の眼に映る、これが現実だ〟\n親鸞聖人の、この自信の宣言を知らない人が多い。","href":"/qa/9-23?open=hitorigoto&hitorigotoId=71","タイトル":"自信","本文":"**「然るに濁世の羣萌、穢悪の含識、乃し九十五種之邪道を出でて、半満・権実之法門に入ると雖も、真なる者は甚だ以て難く、実なる者は甚だ以て希なり。偽なる者は甚だ以て多く、虚なる者は甚だ以て滋し」（化身土巻本）**\n\n〝外道邪教の魔の手から漸く逃れて、有難い仏縁を結んでいても真実の仏法を知らない者ばかり。真実を体得した親鸞の眼に映る、これが現実だ〟\n親鸞聖人の、この自信の宣言を知らない人が多い。","教学聖典id":"9-23"},{"id":"72","globalId":"hitorigoto:72","sortOrder":"000071","kind":"hitorigoto","title":"信罪福心","content":"信罪福心\n**「信罪福心」**\n\n罪福を信ずる心である。\n因果の道理を知らされ、信仰が進むにつれて、〝悪はおそろしいから出てくるな、善は福の元だから出てくれよ〟の心が強くなる。\n〝 **善も要にあらず、悪をもおそるべからず** 〟の無碍の一道に出るまでは、絶対に離れ切らない心を教えられた親鸞聖人のお言葉である。","href":"/qa/4-23?open=hitorigoto&hitorigotoId=72","タイトル":"信罪福心","本文":"**「信罪福心」**\n\n罪福を信ずる心である。\n因果の道理を知らされ、信仰が進むにつれて、〝悪はおそろしいから出てくるな、善は福の元だから出てくれよ〟の心が強くなる。\n〝 **善も要にあらず、悪をもおそるべからず** 〟の無碍の一道に出るまでは、絶対に離れ切らない心を教えられた親鸞聖人のお言葉である。","教学聖典id":"4-23, 7-26"},{"id":"73","globalId":"hitorigoto:73","sortOrder":"000072","kind":"hitorigoto","title":"至極","content":"至極\n**「真宗の門においては、幾度も廃立を先とせり」**\n\n**「それについて三経の安心あり。その中に『大経』をもって真実とせらる。『大経』の中には第十八の願をもって本とす。十八の願にとりてはまた願成就をもって至極とす」**\n\n**「かの心行を獲得せんこと、念仏往生の願成就の『信心歓喜乃至一念』等の文をもって依憑とす。このほか未だ聞かず」(覚如上人)**\n\n親鸞聖人の『教行信証信巻』上下二巻は、この願成就文を開顕されたものである。\n今日果して真宗の誰が、この願成就の佛智の一念を喧しく言う者があろうか。\nこれでは百年河清を待つも真宗の興隆は望むべからず。\n形ばかり千万の門信徒を誇るとも、浄土は易往而無人である。\n吾々親鸞学徒は、祖師聖人の『教行信証』に立ち、覚如上人の『改邪鈔』、蓮如上人の『御文章』に一貫した願成就の錦の御旗をふりかざして進むのみ。","href":"/qa/3-34?open=hitorigoto&hitorigotoId=73","タイトル":"至極","本文":"**「真宗の門においては、幾度も廃立を先とせり」**\n\n**「それについて三経の安心あり。その中に『大経』をもって真実とせらる。『大経』の中には第十八の願をもって本とす。十八の願にとりてはまた願成就をもって至極とす」**\n\n**「かの心行を獲得せんこと、念仏往生の願成就の『信心歓喜乃至一念』等の文をもって依憑とす。このほか未だ聞かず」(覚如上人)**\n\n親鸞聖人の『教行信証信巻』上下二巻は、この願成就文を開顕されたものである。\n今日果して真宗の誰が、この願成就の佛智の一念を喧しく言う者があろうか。\nこれでは百年河清を待つも真宗の興隆は望むべからず。\n形ばかり千万の門信徒を誇るとも、浄土は易往而無人である。\n吾々親鸞学徒は、祖師聖人の『教行信証』に立ち、覚如上人の『改邪鈔』、蓮如上人の『御文章』に一貫した願成就の錦の御旗をふりかざして進むのみ。","教学聖典id":"6-25, 3-34, 4-5"},{"id":"74","globalId":"hitorigoto:74","sortOrder":"000073","kind":"hitorigoto","title":"ふざけてる","content":"ふざけてる\n**「南無阿弥陀仏を称うれば梵王帝釈帰敬す諸天善神ことごとくよるひるつねにまもるなり」（冥衆護持の益）**\n\n**「南無阿弥陀仏を称うれば十方無量の諸仏は百重千重囲繞してよろこびまもりたもうなり」（諸仏護念の益）**\n\n**「金剛堅固の信心の定まる時をまちえてぞ弥陀の心光摂護して永く生死をへだてける」（心光常護の益）**\n\n〝このざまで善果来ぬとはふざけてる〟\n「ああならん」「こうならん」と不満タラタラの私。\nそれ位の善果が来て当然の善人だと自惚れている。\nどんな悪報を受けても、文句の言えない、悪性の限りを尽している私が、諸神や菩薩、諸仏、無上仏に護られて一日一日、恵まれすぎていることを感謝せずにおれない。","href":"/qa/3-14?open=hitorigoto&hitorigotoId=74","タイトル":"ふざけてる","本文":"**「南無阿弥陀仏を称うれば梵王帝釈帰敬す諸天善神ことごとくよるひるつねにまもるなり」（冥衆護持の益）**\n\n**「南無阿弥陀仏を称うれば十方無量の諸仏は百重千重囲繞してよろこびまもりたもうなり」（諸仏護念の益）**\n\n**「金剛堅固の信心の定まる時をまちえてぞ弥陀の心光摂護して永く生死をへだてける」（心光常護の益）**\n\n〝このざまで善果来ぬとはふざけてる〟\n「ああならん」「こうならん」と不満タラタラの私。\nそれ位の善果が来て当然の善人だと自惚れている。\nどんな悪報を受けても、文句の言えない、悪性の限りを尽している私が、諸神や菩薩、諸仏、無上仏に護られて一日一日、恵まれすぎていることを感謝せずにおれない。","教学聖典id":"3-14, 3-15, 6-8"},{"id":"75","globalId":"hitorigoto:75","sortOrder":"000074","kind":"hitorigoto","title":"青年","content":"青年\n**「わが歳きわまりて、安養浄土に還帰すというとも、和歌の浦曲の片男波の、寄せかけ寄せかけ帰らんに同じ。一人いて喜ばは二人と思うべし。二人いて喜ばは三人と思うべし。その一人は親鸞なり」（御臨末の書）**\n\n”一度は親鸞、浄土に還るが、直に戻って来るぞ。十方衆生が救われ切るまで、活動せずにおれないのだ”\n\n未来に生きるのが青年、過去に生きるのが老人といわれる。\n未来とは夢であり理想である。\n魂の中に抱く、夢や理想の質や量によって、青年であるか、老人かが分かれる。\n年齢によってきまるものではない。\nたとえ肉体は七十才八十才であっても、素晴らしい未来に燃える人は、青年だといえる。\n無窮の波動のように、限りなき衆生救済の未来に生きられた聖人は、永遠の青年であった。","href":"/qa/7-50?open=hitorigoto&hitorigotoId=75","タイトル":"青年","本文":"**「わが歳きわまりて、安養浄土に還帰すというとも、和歌の浦曲の片男波の、寄せかけ寄せかけ帰らんに同じ。一人いて喜ばは二人と思うべし。二人いて喜ばは三人と思うべし。その一人は親鸞なり」（御臨末の書）**\n\n”一度は親鸞、浄土に還るが、直に戻って来るぞ。十方衆生が救われ切るまで、活動せずにおれないのだ”\n\n未来に生きるのが青年、過去に生きるのが老人といわれる。\n未来とは夢であり理想である。\n魂の中に抱く、夢や理想の質や量によって、青年であるか、老人かが分かれる。\n年齢によってきまるものではない。\nたとえ肉体は七十才八十才であっても、素晴らしい未来に燃える人は、青年だといえる。\n無窮の波動のように、限りなき衆生救済の未来に生きられた聖人は、永遠の青年であった。","教学聖典id":"7-50"},{"id":"76","globalId":"hitorigoto:76","sortOrder":"000075","kind":"hitorigoto","title":"従仮入真","content":"従仮入真\n**「念仏成仏これ真宗万行諸善これ仮門権実真仮をわかずして自然の浄土をえぞしらぬ」**\n\n**「聖道権仮の方便に衆生ひさしくとどまりて諸有に流転の身とぞなる悲願の一乗帰命せよ」**\n\n**「定散諸機各別の自力の三心ひるがえし如来利他の信心に通入せんとねがうべし」（浄土和讃）**\n\n始めから救われている人はいない。\n真似から本物に進み、方便から真実に誘導される。\n合点から徹到まで照育され不定の心から決定心が確立する。\n若存若亡から金剛心を体得し、自力から他力に至る。\n権仮から真実に養育せられ信前から信後に送られるのだ。\nこれを調機誘引といい、従仮入真という。","href":"/qa/7-3?open=hitorigoto&hitorigotoId=76","タイトル":"従仮入真","本文":"**「念仏成仏これ真宗万行諸善これ仮門権実真仮をわかずして自然の浄土をえぞしらぬ」**\n\n**「聖道権仮の方便に衆生ひさしくとどまりて諸有に流転の身とぞなる悲願の一乗帰命せよ」**\n\n**「定散諸機各別の自力の三心ひるがえし如来利他の信心に通入せんとねがうべし」（浄土和讃）**\n\n始めから救われている人はいない。\n真似から本物に進み、方便から真実に誘導される。\n合点から徹到まで照育され不定の心から決定心が確立する。\n若存若亡から金剛心を体得し、自力から他力に至る。\n権仮から真実に養育せられ信前から信後に送られるのだ。\nこれを調機誘引といい、従仮入真という。","教学聖典id":"7-3, 7-22"},{"id":"77","globalId":"hitorigoto:77","sortOrder":"000076","kind":"hitorigoto","title":"ご方便","content":"ご方便\n**「たとい大火ありて、三千大千世界に充満せんに、要ず当に此を過ぎて、是の経法を聞き、歓喜信楽し受持読誦し、如説に修行すべし」（大無量寿経）**\n\n**「道俗時衆等、各々無上心を発せども、生死甚だ厭い難く仏法また忻い難し。共に金剛の志を発して横に四流を超断せよ」（十四行偈）**\n\n**「たとい大千世界にみてらん火をも過ぎゆきて仏のみ名を聞く人は、永く不退にかなうなり」（浄土和讃）**\n\n無上心を発したこともなければ、生死を厭うたこともない。\n食いたい放題、飲みたい放題、眠たい放題、したい放題の奴が、〝他力じゃ〟〝治らんのが自性じゃ〟〝早く助けてくれ〟の放逸無慚。\nこんな、ならず者のぐうたらの横着者が、必死の聞法をせずにおれなくなるまでは、どれだけのお手間がかかったことじゃやら。\n南無阿弥陀佛南無阿弥陀佛……。","href":"/qa/5-29?open=hitorigoto&hitorigotoId=77","タイトル":"ご方便","本文":"**「たとい大火ありて、三千大千世界に充満せんに、要ず当に此を過ぎて、是の経法を聞き、歓喜信楽し受持読誦し、如説に修行すべし」（大無量寿経）**\n\n**「道俗時衆等、各々無上心を発せども、生死甚だ厭い難く仏法また忻い難し。共に金剛の志を発して横に四流を超断せよ」（十四行偈）**\n\n**「たとい大千世界にみてらん火をも過ぎゆきて仏のみ名を聞く人は、永く不退にかなうなり」（浄土和讃）**\n\n無上心を発したこともなければ、生死を厭うたこともない。\n食いたい放題、飲みたい放題、眠たい放題、したい放題の奴が、〝他力じゃ〟〝治らんのが自性じゃ〟〝早く助けてくれ〟の放逸無慚。\nこんな、ならず者のぐうたらの横着者が、必死の聞法をせずにおれなくなるまでは、どれだけのお手間がかかったことじゃやら。\n南無阿弥陀佛南無阿弥陀佛……。","教学聖典id":"9-41, 5-29"},{"id":"78","globalId":"hitorigoto:78","sortOrder":"000077","kind":"hitorigoto","title":"佛恩報謝","content":"佛恩報謝\n**「弥陀の尊号となえつつ、 信楽まことに獲る人は、憶念の心つねにして、 仏恩報ずるおもいあり」（正像末和讃）**\n\n**「『一念の信心を獲て後の相続』というは、更に別のことに非ず、はじめ発起するところの安心に相続せられて、とうとくなる一念の心のとおるを『憶念の心つねに』とも、『仏恩報謝』ともいう。いよいよ帰命の一念発起すること肝要なり」（御一代記聞書）**\n\n”信に信功なく、行に行功なし”\n信行ともに不可思議の願海にかえる。\n名号が耳から腹を通り、口に溢れて功徳の大宝海に帰入する。\n信ずる心も念ずる心も、みな阿弥陀仏の独り働きとなり、ただ私はそれに動かされているだけである。","href":"/qa/6-15?open=hitorigoto&hitorigotoId=78","タイトル":"佛恩報謝","本文":"**「弥陀の尊号となえつつ、 信楽まことに獲る人は、憶念の心つねにして、 仏恩報ずるおもいあり」（正像末和讃）**\n\n**「『一念の信心を獲て後の相続』というは、更に別のことに非ず、はじめ発起するところの安心に相続せられて、とうとくなる一念の心のとおるを『憶念の心つねに』とも、『仏恩報謝』ともいう。いよいよ帰命の一念発起すること肝要なり」（御一代記聞書）**\n\n”信に信功なく、行に行功なし”\n信行ともに不可思議の願海にかえる。\n名号が耳から腹を通り、口に溢れて功徳の大宝海に帰入する。\n信ずる心も念ずる心も、みな阿弥陀仏の独り働きとなり、ただ私はそれに動かされているだけである。","教学聖典id":"6-15"},{"id":"79","globalId":"hitorigoto:79","sortOrder":"000078","kind":"hitorigoto","title":"難行道","content":"難行道\n**「難行の陸路の苦しきことを顕示し、易行の水道の楽しきことを信楽せしめたまう」（正信偈）**\n\n仏教に難易二道あることを開顕されたのが龍樹菩薩。\n諸の煩悩が見えて怖ろしく、久しくかかるようで心配し、堕ちるのでなかろうかと不安になった軟心の菩薩が悲鳴をあげる。\n“諸久堕の三難があって、どうしても不退転位に入れません”\n“たわけ者、仏道を求めるのは大宇宙を担うよりも難しいのだぞ。無上道を求むる者の口にすることではない”と、龍樹は叱り飛ばす。\n己の無能をよくよく自覚させてから彼は、他力不思議を宣説している。\n“どうしても真剣になれないとすれば、仏法にも無量の門がある。世間の道にも難あり易あり。陸路は難しいが、水道の乗船は楽しい。阿弥陀佛の本願は水道の如しである”と。","href":"/qa/1-11?open=hitorigoto&hitorigotoId=79","タイトル":"難行道","本文":"**「難行の陸路の苦しきことを顕示し、易行の水道の楽しきことを信楽せしめたまう」（正信偈）**\n\n仏教に難易二道あることを開顕されたのが龍樹菩薩。\n諸の煩悩が見えて怖ろしく、久しくかかるようで心配し、堕ちるのでなかろうかと不安になった軟心の菩薩が悲鳴をあげる。\n“諸久堕の三難があって、どうしても不退転位に入れません”\n“たわけ者、仏道を求めるのは大宇宙を担うよりも難しいのだぞ。無上道を求むる者の口にすることではない”と、龍樹は叱り飛ばす。\n己の無能をよくよく自覚させてから彼は、他力不思議を宣説している。\n“どうしても真剣になれないとすれば、仏法にも無量の門がある。世間の道にも難あり易あり。陸路は難しいが、水道の乗船は楽しい。阿弥陀佛の本願は水道の如しである”と。","教学聖典id":"1-11, 5-15"},{"id":"8","globalId":"hitorigoto:8","sortOrder":"000007","kind":"hitorigoto","title":"急ぐこと","content":"急ぐこと\n**「善従申され候とて、前住上人仰せられ候。ある人、善従の宿所へ行き候ところに、履(くつ)をさえ脱ぎ候わぬに、仏法のこと申しかけられ候。又、ある人申され候は、履(くつ)をさえ脱がれ候わぬに、急ぎ斯様には何とて仰せ候ぞと、人申しければ、善従申され候は、出ずる息は入るをまたぬ浮世なり。若し履(くつ)を脱がれぬ間に死去候わば、いかが候べきと申され候。ただ仏法の事をばさし急ぎ申すべきの由仰せられ候」（御一代記聞書）**\n\n阪神大震災で亡くなった人、サリンの犠牲になった人、ソウルのデパート事故で圧死された人。\nあの日の朝、今生最後の覚悟で食事した人があっただろうか。\nまさに、 **朝には紅顔あって、夕には白骨** となる身である。\nだれの人もはやく、後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏を深くたのむ身に急がねばならぬ。","href":"/qa/1-44?open=hitorigoto&hitorigotoId=8","タイトル":"急ぐこと","本文":"**「善従申され候とて、前住上人仰せられ候。ある人、善従の宿所へ行き候ところに、履(くつ)をさえ脱ぎ候わぬに、仏法のこと申しかけられ候。又、ある人申され候は、履(くつ)をさえ脱がれ候わぬに、急ぎ斯様には何とて仰せ候ぞと、人申しければ、善従申され候は、出ずる息は入るをまたぬ浮世なり。若し履(くつ)を脱がれぬ間に死去候わば、いかが候べきと申され候。ただ仏法の事をばさし急ぎ申すべきの由仰せられ候」（御一代記聞書）**\n\n阪神大震災で亡くなった人、サリンの犠牲になった人、ソウルのデパート事故で圧死された人。\nあの日の朝、今生最後の覚悟で食事した人があっただろうか。\nまさに、 **朝には紅顔あって、夕には白骨** となる身である。\nだれの人もはやく、後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏を深くたのむ身に急がねばならぬ。","教学聖典id":"1-44, 4-49, 5-43"},{"id":"80","globalId":"hitorigoto:80","sortOrder":"000079","kind":"hitorigoto","title":"正定聚の菩薩","content":"正定聚の菩薩\n**「本願を信受するは、前念命終なり。即ち、正定聚の数に入る。即得往生は、後念即生なり。即時に必定に入る。又、必定の菩薩と名くるなり」（愚禿鈔上巻）**\n\n本願を聞き開いた時、前の命が終った。\n「助かることなどあるものか」の自力の心が死んで、「助かったことの不思議さよ」と、極楽参りが決ったのだ。\n次の息を吐き出した時は、魂の往生をしているから、二度と迷わぬ正定聚の菩薩になった、と仰有っていられるのである。","href":"/qa/4-30?open=hitorigoto&hitorigotoId=80","タイトル":"正定聚の菩薩","本文":"**「本願を信受するは、前念命終なり。即ち、正定聚の数に入る。即得往生は、後念即生なり。即時に必定に入る。又、必定の菩薩と名くるなり」（愚禿鈔上巻）**\n\n本願を聞き開いた時、前の命が終った。\n「助かることなどあるものか」の自力の心が死んで、「助かったことの不思議さよ」と、極楽参りが決ったのだ。\n次の息を吐き出した時は、魂の往生をしているから、二度と迷わぬ正定聚の菩薩になった、と仰有っていられるのである。","教学聖典id":"4-30"},{"id":"81","globalId":"hitorigoto:81","sortOrder":"000080","kind":"hitorigoto","title":"真の仏弟子","content":"真の仏弟子\n**「利他の信楽うるひとは　願に相応するゆえに　教と仏語にしたがえば　外の雑縁さらになし」（高僧和讃）**\n\n「利他の信楽うる人」他力の信心を獲得した人のことてある。\n「願に相応する」とは、弥陀の本願のお目当てである逆謗の屍が照らし出されて摂取されたのだから、弥陀の本願に相応し、生かしたことになる。\n素直に聞いている人は善人だから、弥陀の十八願に相応しないのである。\n「教と仏語にしたがえば」とは、釈尊の『観無量寿経』の教（第十九の願意）と、『阿弥陀経』の釈迦、諸仏のお言葉（第二十の願意）に従うて、弥陀、釈迦、諸仏の三仏を生かし、三部経を読み破ったのたから「外の雑縁さらになし」となる。\n外からの非難攻撃ぐらいではびくともしないのだ。\n三世十方法界の幸福人とは他力の信を獲得して、真の仏弟子となった人のことである。","href":"/qa/2-48?open=hitorigoto&hitorigotoId=81","タイトル":"真の仏弟子","本文":"**「利他の信楽うるひとは　願に相応するゆえに　教と仏語にしたがえば　外の雑縁さらになし」（高僧和讃）**\n\n「利他の信楽うる人」他力の信心を獲得した人のことてある。\n「願に相応する」とは、弥陀の本願のお目当てである逆謗の屍が照らし出されて摂取されたのだから、弥陀の本願に相応し、生かしたことになる。\n素直に聞いている人は善人だから、弥陀の十八願に相応しないのである。\n「教と仏語にしたがえば」とは、釈尊の『観無量寿経』の教（第十九の願意）と、『阿弥陀経』の釈迦、諸仏のお言葉（第二十の願意）に従うて、弥陀、釈迦、諸仏の三仏を生かし、三部経を読み破ったのたから「外の雑縁さらになし」となる。\n外からの非難攻撃ぐらいではびくともしないのだ。\n三世十方法界の幸福人とは他力の信を獲得して、真の仏弟子となった人のことである。","教学聖典id":"2-48, 9-4"},{"id":"82","globalId":"hitorigoto:82","sortOrder":"000081","kind":"hitorigoto","title":"聖人の哀願","content":"聖人の哀願\n**「三朝浄土の大師等　哀愍摂受したまいて　真実信心すすめしめ　定聚のくらいに入れしめよ」（正像末和讃）**\n\n\"お願いでございます。お願いでございます。\n印度の龍樹さま、天親さま。中国の曇鸞さま、道綽さま、善導さま。そして和国の源信さま、お師匠さま。\n力の限り親鸞、真実信心一つを説き勧めておりますが、非力非才、力及ばず、無碍の一道へ出る人がありません。\n力乏しきこの親鸞を、哀れに思し召して、どうか御助力を懇願致します。\"\n切々たる哀願の、聖人の御声が聞こえてくるようだ。\n同じ告白を、蓮如上人もなされている。\n\n**\"あわれあわれ、存命のうちにみなみな信心決定あれかしと朝夕思ひはんべり。まことに宿善まかせとはいいながら、述懐の心しばらくもやむことなし\"（御文章四帖）**","href":"/qa/5-23?open=hitorigoto&hitorigotoId=82","タイトル":"聖人の哀願","本文":"**「三朝浄土の大師等　哀愍摂受したまいて　真実信心すすめしめ　定聚のくらいに入れしめよ」（正像末和讃）**\n\n\"お願いでございます。お願いでございます。\n印度の龍樹さま、天親さま。中国の曇鸞さま、道綽さま、善導さま。そして和国の源信さま、お師匠さま。\n力の限り親鸞、真実信心一つを説き勧めておりますが、非力非才、力及ばず、無碍の一道へ出る人がありません。\n力乏しきこの親鸞を、哀れに思し召して、どうか御助力を懇願致します。\"\n切々たる哀願の、聖人の御声が聞こえてくるようだ。\n同じ告白を、蓮如上人もなされている。\n\n**\"あわれあわれ、存命のうちにみなみな信心決定あれかしと朝夕思ひはんべり。まことに宿善まかせとはいいながら、述懐の心しばらくもやむことなし\"（御文章四帖）**","教学聖典id":"9-19, 5-23"},{"id":"83","globalId":"hitorigoto:83","sortOrder":"000082","kind":"hitorigoto","title":"不平不満","content":"不平不満\n**「主上、臣下、法に背き義に違し忿を成し、怨を結ぶ。これによりて、真宗興隆の太祖源空法師、ならびに門徒数輩、罪科を考へず、猥しく死罪に坐す。或は僧の儀を改め姓名を賜うて遠流に処す。予はその一なり」（教行信証後序）**\n\n〝ああ何たることか。天皇も臣下も真の大法に背き、正義に違い、無法の忿を起こし怨を結び、本師法然を初め門下の秀俊をほしいままに死罪にし、遠国に流したのだ。親鸞もその一人である〟\n不平満々の情を訴えておられる聖人だ。\n人間誰しも、不平もあれば不満もある。これがなければ人間ではない。\nこれがなければ奮起も前進もない。\nこの不平不満が信力で、\"これなお師教の恩致なり\"と、転悪成善飛躍して、大衆を教化することができるのだ。","href":"/qa/6-20?open=hitorigoto&hitorigotoId=83","タイトル":"不平不満","本文":"**「主上、臣下、法に背き義に違し忿を成し、怨を結ぶ。これによりて、真宗興隆の太祖源空法師、ならびに門徒数輩、罪科を考へず、猥しく死罪に坐す。或は僧の儀を改め姓名を賜うて遠流に処す。予はその一なり」（教行信証後序）**\n\n〝ああ何たることか。天皇も臣下も真の大法に背き、正義に違い、無法の忿を起こし怨を結び、本師法然を初め門下の秀俊をほしいままに死罪にし、遠国に流したのだ。親鸞もその一人である〟\n不平満々の情を訴えておられる聖人だ。\n人間誰しも、不平もあれば不満もある。これがなければ人間ではない。\nこれがなければ奮起も前進もない。\nこの不平不満が信力で、\"これなお師教の恩致なり\"と、転悪成善飛躍して、大衆を教化することができるのだ。","教学聖典id":"6-20, 9-24, 6-21"},{"id":"84","globalId":"hitorigoto:84","sortOrder":"000083","kind":"hitorigoto","title":"慈悲","content":"慈悲\n**「末代の道俗、近世の宗師、自性唯心に沈んで浄土の真証を貶し、定散の自心に迷うて金剛の真信に昏し。ここに愚禿釈の親鸞、諸仏如来の真説に信順して、論家釈家の宗義を披閲し、広く三経の光澤を蒙りて、特に一心の華文を開き、しばらく疑問を至して、遂に明証を出す。誠に仏恩の深重なるを念じて、人倫の哢言を恥ぢず。浄邦を忻う徒衆、穢域を厭う庶類、取捨を加うと雖も、毀謗を生ずることなかれ」（教行信証信巻）**\n\n親鸞の信念は、十方諸仏の教導に信順し、七高僧の真意を諦得して述べているのである。\n文句があるなら仏祖に言えばいい。\n親鸞の悪口を言って、自ら法謗の大罪を造ってはならないぞ。\nともに仏智の不思議を開顕しようではないか、と慈悲の溢れる聖人のお言葉である。","href":"/qa/5-21?open=hitorigoto&hitorigotoId=84","タイトル":"慈悲","本文":"**「末代の道俗、近世の宗師、自性唯心に沈んで浄土の真証を貶し、定散の自心に迷うて金剛の真信に昏し。ここに愚禿釈の親鸞、諸仏如来の真説に信順して、論家釈家の宗義を披閲し、広く三経の光澤を蒙りて、特に一心の華文を開き、しばらく疑問を至して、遂に明証を出す。誠に仏恩の深重なるを念じて、人倫の哢言を恥ぢず。浄邦を忻う徒衆、穢域を厭う庶類、取捨を加うと雖も、毀謗を生ずることなかれ」（教行信証信巻）**\n\n親鸞の信念は、十方諸仏の教導に信順し、七高僧の真意を諦得して述べているのである。\n文句があるなら仏祖に言えばいい。\n親鸞の悪口を言って、自ら法謗の大罪を造ってはならないぞ。\nともに仏智の不思議を開顕しようではないか、と慈悲の溢れる聖人のお言葉である。","教学聖典id":"7-6, 5-21, 6-16"},{"id":"85","globalId":"hitorigoto:85","sortOrder":"000084","kind":"hitorigoto","title":"肝要","content":"肝要\n**「聖人の御流は、たのむ一念の所肝要なり。故に『たのむ』ということをば、代々遊ばしおかれ候えども、委しく何とたのめという事を知らざりき。然れば蓮如上人の御代に、『御文』を御作り候て、『雑行を捨てて後生助けたまえと一心に弥陀をたのめ』と、明らかに知らせられ候。然れば御再興の上人にて在すものなり」（御一代記聞書）**\n\n江戸時代、本願寺に三業惑乱という大事件が起きた。\n「たのめ」といわれているから身体でたのむ、口でたのむ、心でたのむ。\n身口意の三業で、何年何月何日に、誰々から教えられて弥陀をたのんだ、という異安心のために浄土真宗は大いに乱れた。\n以来、真宗の道俗は、肝要の「たのむ一念」を怖れ毛嫌いして、いよいよもって無人の曠野と化してしまったのである。\n肝要ぬかし、聖人のみ教えを徹底できるはずがない。","href":"/qa/4-5?open=hitorigoto&hitorigotoId=85","タイトル":"肝要","本文":"**「聖人の御流は、たのむ一念の所肝要なり。故に『たのむ』ということをば、代々遊ばしおかれ候えども、委しく何とたのめという事を知らざりき。然れば蓮如上人の御代に、『御文』を御作り候て、『雑行を捨てて後生助けたまえと一心に弥陀をたのめ』と、明らかに知らせられ候。然れば御再興の上人にて在すものなり」（御一代記聞書）**\n\n江戸時代、本願寺に三業惑乱という大事件が起きた。\n「たのめ」といわれているから身体でたのむ、口でたのむ、心でたのむ。\n身口意の三業で、何年何月何日に、誰々から教えられて弥陀をたのんだ、という異安心のために浄土真宗は大いに乱れた。\n以来、真宗の道俗は、肝要の「たのむ一念」を怖れ毛嫌いして、いよいよもって無人の曠野と化してしまったのである。\n肝要ぬかし、聖人のみ教えを徹底できるはずがない。","教学聖典id":"4-5, 7-43"},{"id":"86","globalId":"hitorigoto:86","sortOrder":"000085","kind":"hitorigoto","title":"外道","content":"外道\n「内外廃立は、オレと関係ない」と思っている。\n仏法に遇いながら、後生の一大事を認めようとしないのが「 **仏法の威儀をもととして天地の鬼神を尊敬** 」している外道の姿なのに。\n「 **悲しきかなや** 」の聖人の悲泣が、とどかない。","href":"/qa/6-33?open=hitorigoto&hitorigotoId=86","タイトル":"外道","本文":"「内外廃立は、オレと関係ない」と思っている。\n仏法に遇いながら、後生の一大事を認めようとしないのが「 **仏法の威儀をもととして天地の鬼神を尊敬** 」している外道の姿なのに。\n「 **悲しきかなや** 」の聖人の悲泣が、とどかない。","教学聖典id":"6-33"},{"id":"87","globalId":"hitorigoto:87","sortOrder":"000086","kind":"hitorigoto","title":"流転","content":"流転\n**「三恒河沙の諸仏の、出世のみもとにありしとき、大菩提心おこせども、自力かなはで流転せり」（正像末和讃）**\n\n「今日こそは今日こそは」と奮発心おこせども「ダメだった、またダメだった」と、自力かなはで流転したと、聖人さまも泣いていられる。\n楽に、簡単に聞ける法なら難中之難とは言われない。\nいまの流転が、永久の流転と自力無功の証である。","href":"/qa/9-26?open=hitorigoto&hitorigotoId=87","タイトル":"流転","本文":"**「三恒河沙の諸仏の、出世のみもとにありしとき、大菩提心おこせども、自力かなはで流転せり」（正像末和讃）**\n\n「今日こそは今日こそは」と奮発心おこせども「ダメだった、またダメだった」と、自力かなはで流転したと、聖人さまも泣いていられる。\n楽に、簡単に聞ける法なら難中之難とは言われない。\nいまの流転が、永久の流転と自力無功の証である。","教学聖典id":"9-26"},{"id":"88","globalId":"hitorigoto:88","sortOrder":"000087","kind":"hitorigoto","title":"衆生摂生の三願","content":"衆生摂生の三願\n**「仏、慈氏に告げたまわく、若し衆生有りて、疑惑の心を以て諸の功徳を修め、彼の国に生れんと願じ、仏智・不思議智・不可称智・大乗広智･無等無倫最上勝智を了せず、此の諸智に於て疑惑して信ぜず、然もなお罪福を信じ、善本を修習して、其の国に生れんと願わん。（乃至）若し衆生ありて、明かに仏智乃至勝智を信じ、諸の功徳を作し、信心廻向せん。此の諸の衆生、七宝華の中に於て自然に化生す」（大無量寿経－胎化段）**\n\n**〝道教を光闡し、恵むに真実の利を以ってせん〟（釈尊）**\n\nの本懐宣言は、そのまま本師弥陀の衆生摂生の三願建立の仏意だった、と明示された御文である。\n十九の願意を「疑惑の心で諸の功徳を修め」と説き、二十の願意を「罪福を信じ善本を修習」と表わし、「明かに仏智乃至勝智を信じ」とある十八願こそ真実の利に転入せしめる弥陀の願意と明らかにされたものである。","href":"/qa/2-7?open=hitorigoto&hitorigotoId=88","タイトル":"衆生摂生の三願","本文":"**「仏、慈氏に告げたまわく、若し衆生有りて、疑惑の心を以て諸の功徳を修め、彼の国に生れんと願じ、仏智・不思議智・不可称智・大乗広智･無等無倫最上勝智を了せず、此の諸智に於て疑惑して信ぜず、然もなお罪福を信じ、善本を修習して、其の国に生れんと願わん。（乃至）若し衆生ありて、明かに仏智乃至勝智を信じ、諸の功徳を作し、信心廻向せん。此の諸の衆生、七宝華の中に於て自然に化生す」（大無量寿経－胎化段）**\n\n**〝道教を光闡し、恵むに真実の利を以ってせん〟（釈尊）**\n\nの本懐宣言は、そのまま本師弥陀の衆生摂生の三願建立の仏意だった、と明示された御文である。\n十九の願意を「疑惑の心で諸の功徳を修め」と説き、二十の願意を「罪福を信じ善本を修習」と表わし、「明かに仏智乃至勝智を信じ」とある十八願こそ真実の利に転入せしめる弥陀の願意と明らかにされたものである。","教学聖典id":"2-7, 7-17"},{"id":"89","globalId":"hitorigoto:89","sortOrder":"000088","kind":"hitorigoto","title":"唯信独達","content":"唯信独達\n**「三経の安心あり。その中に大経をもって真実とせらる。大経の中には第十八の願をもって本とす。十八の願にとりてはまた、願成就をもって至極とす。『信心歓喜・乃至一念』をもって、他力の安心と思召さるる故なり」(改邪鈔)**\n\n善導大師や法然上人が、称名本願を説いたのは『観経』に腰を据えて弥陀の本願を見られたからである。\nそれは諸行に対して念仏易行を説いたもので、行々相対の法門という。\n親鸞聖人が念仏為本より信心為本を勧められたのは『大経』の願成就そのものから本願を見られたのである。\n『大経』には\"称南无阿弥陀仏\"の文は一ヵ所もない。\n願成就文には称名はなく、信一念の往生である。\n願成就文から見ると弥陀の本願は、正しく信心為本となる。\nかくて、乃至十念の念仏は三心に収まり唯信独達の法門が成立する。\n行々相対より唯信別開の絶対門になるのだ。","href":"/qa/3-33?open=hitorigoto&hitorigotoId=89","タイトル":"唯信独達","本文":"**「三経の安心あり。その中に大経をもって真実とせらる。大経の中には第十八の願をもって本とす。十八の願にとりてはまた、願成就をもって至極とす。『信心歓喜・乃至一念』をもって、他力の安心と思召さるる故なり」(改邪鈔)**\n\n善導大師や法然上人が、称名本願を説いたのは『観経』に腰を据えて弥陀の本願を見られたからである。\nそれは諸行に対して念仏易行を説いたもので、行々相対の法門という。\n親鸞聖人が念仏為本より信心為本を勧められたのは『大経』の願成就そのものから本願を見られたのである。\n『大経』には\"称南无阿弥陀仏\"の文は一ヵ所もない。\n願成就文には称名はなく、信一念の往生である。\n願成就文から見ると弥陀の本願は、正しく信心為本となる。\nかくて、乃至十念の念仏は三心に収まり唯信独達の法門が成立する。\n行々相対より唯信別開の絶対門になるのだ。","教学聖典id":"3-34, 3-33, 4-39"},{"id":"9","globalId":"hitorigoto:9","sortOrder":"000008","kind":"hitorigoto","title":"後生の苦","content":"後生の苦\n**「定水を凝らすと雖も識浪しきりに動き、心月を観ずと雖も妄雲なお覆う。しかるに一息つがざれば千載に長う往く。何ぞ浮生の交衆を貪って徒に仮名の修学に疲れん。すべからく勢利を抛って直に出離をねがうべし」と。（歎徳文）**\n\n**「『仏法には世間の隙を闕きて聞くべし。世間の隙をあけて法を聞くべきように思うこと、浅ましきことなり。仏法には明日ということはあるまじき』由の仰せに候。『たとい大千世界に、満てらん火をもすぎゆきて、仏の御名を聞く人は、ながく不退にかなうなり』と『和讃』に遊ばされ候」（御一代記聞書）**\n\n眼先の欲に狂わされて、生死の大海の暴風雨には驚きを立てず、後生菩提に真剣に取り組む人がない。\n世間の苦しみはあっても、一大事の後生が苦になって、求道している者は稀である。","href":"/qa/1-45?open=hitorigoto&hitorigotoId=9","タイトル":"後生の苦","本文":"**「定水を凝らすと雖も識浪しきりに動き、心月を観ずと雖も妄雲なお覆う。しかるに一息つがざれば千載に長う往く。何ぞ浮生の交衆を貪って徒に仮名の修学に疲れん。すべからく勢利を抛って直に出離をねがうべし」と。（歎徳文）**\n\n**「『仏法には世間の隙を闕きて聞くべし。世間の隙をあけて法を聞くべきように思うこと、浅ましきことなり。仏法には明日ということはあるまじき』由の仰せに候。『たとい大千世界に、満てらん火をもすぎゆきて、仏の御名を聞く人は、ながく不退にかなうなり』と『和讃』に遊ばされ候」（御一代記聞書）**\n\n眼先の欲に狂わされて、生死の大海の暴風雨には驚きを立てず、後生菩提に真剣に取り組む人がない。\n世間の苦しみはあっても、一大事の後生が苦になって、求道している者は稀である。","教学聖典id":"1-45, 5-31"},{"id":"90","globalId":"hitorigoto:90","sortOrder":"000089","kind":"hitorigoto","title":"観音勢至","content":"観音勢至\n**「一向専念の義は、往生の肝腑、自宗の骨目なり」（御伝鈔）**\n\n**「いまの行者、あやまって観音勢至につかふることなかれ。直に本仏を仰ぐべし」（御伝鈔）**\n\n**「仏、阿難及び韋提希に告げたまわく、諦に聴け諦に聴け。仏当に汝が為に苦悩を除く法を分別し、解説すべし。是の語を説きたまう時、無量寿仏、空中に住立し、観世音・大勢至、是の二大士左右に侍立せり」（観無量寿経）**\n\nこのように空中に立たれた阿弥陀仏には、観音勢至が左右に侍立すると説かれてあるのに親鸞聖人は、その観音勢至を取り除いて、弥陀一仏となされている。\n観音勢至といっても、阿弥陀仏の慈悲と智慧の表れなのに、観音・勢至と分けておくと、阿弥陀仏以外の者のように誤って、観音勢至に向って祈祷する、迷信におちいらないようにとのご配慮からである。","href":"/qa/6-38?open=hitorigoto&hitorigotoId=90","タイトル":"観音勢至","本文":"**「一向専念の義は、往生の肝腑、自宗の骨目なり」（御伝鈔）**\n\n**「いまの行者、あやまって観音勢至につかふることなかれ。直に本仏を仰ぐべし」（御伝鈔）**\n\n**「仏、阿難及び韋提希に告げたまわく、諦に聴け諦に聴け。仏当に汝が為に苦悩を除く法を分別し、解説すべし。是の語を説きたまう時、無量寿仏、空中に住立し、観世音・大勢至、是の二大士左右に侍立せり」（観無量寿経）**\n\nこのように空中に立たれた阿弥陀仏には、観音勢至が左右に侍立すると説かれてあるのに親鸞聖人は、その観音勢至を取り除いて、弥陀一仏となされている。\n観音勢至といっても、阿弥陀仏の慈悲と智慧の表れなのに、観音・勢至と分けておくと、阿弥陀仏以外の者のように誤って、観音勢至に向って祈祷する、迷信におちいらないようにとのご配慮からである。","教学聖典id":"6-38, "},{"id":"91","globalId":"hitorigoto:91","sortOrder":"000090","kind":"hitorigoto","title":"仮門","content":"仮門\n**「設い我仏を得んに、十方の衆生、菩提心を発し、諸の功徳を修し、至心に発願して、我が国に生れんと欲はん。寿終るの時に臨みて、仮令大衆と圍繞して其の人の前に現ぜずば、正覚を取らじ」（第十九願）**\n\n何かを信じなければ生きられぬ十方衆生は、機毎機毎でそれが最高無上と信じている。\nそれらに唯一の真実を教え信ぜしめることは容易なことではない。\n程度の低いものに、善悪を越えた仏智不思議の世界を教えても寝言としか聞かぬから因果の道理に則って、善を励めよ、それに応じた善果が得られるのだと、十方衆生を宇宙の真理で統合し、二十願へと導入するのが十九願である。\n十八願の境地からは、善悪の執着を離れ切らないから、邪に定った人達（邪定聚）と貶しめて、もう一歩前進せよ\"善もほしからず悪をも怖れず\"の世界があるぞと、勧められる本願なのである。","href":"/qa/7-18?open=hitorigoto&hitorigotoId=91","タイトル":"仮門","本文":"**「設い我仏を得んに、十方の衆生、菩提心を発し、諸の功徳を修し、至心に発願して、我が国に生れんと欲はん。寿終るの時に臨みて、仮令大衆と圍繞して其の人の前に現ぜずば、正覚を取らじ」（第十九願）**\n\n何かを信じなければ生きられぬ十方衆生は、機毎機毎でそれが最高無上と信じている。\nそれらに唯一の真実を教え信ぜしめることは容易なことではない。\n程度の低いものに、善悪を越えた仏智不思議の世界を教えても寝言としか聞かぬから因果の道理に則って、善を励めよ、それに応じた善果が得られるのだと、十方衆生を宇宙の真理で統合し、二十願へと導入するのが十九願である。\n十八願の境地からは、善悪の執着を離れ切らないから、邪に定った人達（邪定聚）と貶しめて、もう一歩前進せよ\"善もほしからず悪をも怖れず\"の世界があるぞと、勧められる本願なのである。","教学聖典id":"7-18"},{"id":"92","globalId":"hitorigoto:92","sortOrder":"000091","kind":"hitorigoto","title":"叡空と法然","content":"叡空と法然\n**「汝、若し念ずること能はずば、応に無量寿仏を称すべし」（観無量寿経）**\n\n〝「光明遍照十方世界、念仏衆生摂取不捨」は仏を観念する衆生のことで、雑念を払い観念しなければ極楽に往生できぬ〟\n\n叡空師の『往生要集』を聴講していた弟子の源空が、\n〝あれは称名念仏ではありませんか。\n『観経』の真身観の仏は下三品の火車来現、苦逼失念の者が相手、観念できる筈がない。\n『要集』の初頭にも「余が如き頑魯の者、往生の業は念仏を本とする」とあるではありませんか〟\n〝だが、総相観から極略観までみな観々と説かれている〟\n〝しかし下々品に、「汝若し念ずること能はずば、応に無量寿仏を称すべし」とあるではありませんか〟\n絶句した叡空は遂に源空を破門した。\n臨終に乱想を鎮め得なかった叡空は、急遽、源空を呼んで、\n〝観念できると思っていたのは誤りであった。法の自然を弁えていたそなたは、以後法然と呼ばれるがふさわしい〟\nと遺言したという。","href":"/qa/1-11?open=hitorigoto&hitorigotoId=92","タイトル":"叡空と法然","本文":"**「汝、若し念ずること能はずば、応に無量寿仏を称すべし」（観無量寿経）**\n\n〝「光明遍照十方世界、念仏衆生摂取不捨」は仏を観念する衆生のことで、雑念を払い観念しなければ極楽に往生できぬ〟\n\n叡空師の『往生要集』を聴講していた弟子の源空が、\n〝あれは称名念仏ではありませんか。\n『観経』の真身観の仏は下三品の火車来現、苦逼失念の者が相手、観念できる筈がない。\n『要集』の初頭にも「余が如き頑魯の者、往生の業は念仏を本とする」とあるではありませんか〟\n〝だが、総相観から極略観までみな観々と説かれている〟\n〝しかし下々品に、「汝若し念ずること能はずば、応に無量寿仏を称すべし」とあるではありませんか〟\n絶句した叡空は遂に源空を破門した。\n臨終に乱想を鎮め得なかった叡空は、急遽、源空を呼んで、\n〝観念できると思っていたのは誤りであった。法の自然を弁えていたそなたは、以後法然と呼ばれるがふさわしい〟\nと遺言したという。","教学聖典id":"1-11, 9-35, 8-19"},{"id":"93","globalId":"hitorigoto:93","sortOrder":"000092","kind":"hitorigoto","title":"屍骸","content":"屍骸\n**「名号不思議の海水は逆謗の屍骸もとどまらず衆悪の万川帰しぬれば功徳のうしおに一味なり」（高僧和讃）**\n\n名号不思議の海水は、光明無量・寿命無量のうしおである。\n真剣に二河白道を進んだ人が、無量の光明に照らし出され、〝回るも死、住まるも死、去くも死〟絶体絶命の逆謗の屍骸が己れであったと知らされ、往生の望みが断たれた時が機の深信であり、昿劫流転の逆謗の屍を〝若し、にっこり生きかえらせることができなければ〟と若の一字に正覚をかける「若不生者」の無量の寿命に摂取されたのが法の深信であり、至心信楽己れを忘れた境地を〝功徳のうしおに一味なり〟と聖人は仰せになっている。\n二河白道を実地に進み、三定死に立った実感のない者には、逆謗の屍骸も分からなければ、功徳のうしおに一味にもなれるはずがないのである。","href":"/qa/2-8?open=hitorigoto&hitorigotoId=93","タイトル":"屍骸","本文":"**「名号不思議の海水は逆謗の屍骸もとどまらず衆悪の万川帰しぬれば功徳のうしおに一味なり」（高僧和讃）**\n\n名号不思議の海水は、光明無量・寿命無量のうしおである。\n真剣に二河白道を進んだ人が、無量の光明に照らし出され、〝回るも死、住まるも死、去くも死〟絶体絶命の逆謗の屍骸が己れであったと知らされ、往生の望みが断たれた時が機の深信であり、昿劫流転の逆謗の屍を〝若し、にっこり生きかえらせることができなければ〟と若の一字に正覚をかける「若不生者」の無量の寿命に摂取されたのが法の深信であり、至心信楽己れを忘れた境地を〝功徳のうしおに一味なり〟と聖人は仰せになっている。\n二河白道を実地に進み、三定死に立った実感のない者には、逆謗の屍骸も分からなければ、功徳のうしおに一味にもなれるはずがないのである。","教学聖典id":"2-21, 2-8, 6-5"},{"id":"94","globalId":"hitorigoto:94","sortOrder":"000093","kind":"hitorigoto","title":"火宅の実相","content":"火宅の実相\n**「善悪の二、総じてもって存知せざるなり──云々」（歎異鈔）**\n\n徳川時代は将軍や大名のために死ぬのを忠といい、明治以降敗戦までは、天皇のために命を捨てることが忠といわれた。\nそれが今日ではネズミの鳴き声かという者さえいる始末。\n敗戦までは主権在民、労使平等などと言えば忽ち“アイツは赤だ”“危険思想の持ち主”と投獄されたが、今日は天皇も労働者も平等で、政権が変ると憲法も変り、収監されていた者も一夜にして無罪放免、昨日までの権力者は糾弾され断罪される国もある。\nベテラン判事を集めた最高裁でも十対五とか八対七とか意見一致がみられない。\n調書を読む者の心証が各別で、夫々の偏見で事態を眺め善だ悪だ有罪だ無罪だと裁いていることが分る。\nそら恐ろしいものがある。\n所詮は火宅無常の世界でクルクル変る煩悩具足の人間そのものの実相に外ならない。","href":"/qa/2-45?open=hitorigoto&hitorigotoId=94","タイトル":"火宅の実相","本文":"**「善悪の二、総じてもって存知せざるなり──云々」（歎異鈔）**\n\n徳川時代は将軍や大名のために死ぬのを忠といい、明治以降敗戦までは、天皇のために命を捨てることが忠といわれた。\nそれが今日ではネズミの鳴き声かという者さえいる始末。\n敗戦までは主権在民、労使平等などと言えば忽ち“アイツは赤だ”“危険思想の持ち主”と投獄されたが、今日は天皇も労働者も平等で、政権が変ると憲法も変り、収監されていた者も一夜にして無罪放免、昨日までの権力者は糾弾され断罪される国もある。\nベテラン判事を集めた最高裁でも十対五とか八対七とか意見一致がみられない。\n調書を読む者の心証が各別で、夫々の偏見で事態を眺め善だ悪だ有罪だ無罪だと裁いていることが分る。\nそら恐ろしいものがある。\n所詮は火宅無常の世界でクルクル変る煩悩具足の人間そのものの実相に外ならない。","教学聖典id":"2-45"},{"id":"95","globalId":"hitorigoto:95","sortOrder":"000094","kind":"hitorigoto","title":"この外聞かず","content":"この外聞かず\n**「諸有衆生　聞其名号　信心歓喜　乃至一念　至心回向　願生彼国　即得往生　住不退転　唯除五逆　誹謗正法」（釈尊）**\n\n**「横超とは即ち願成就一実円満之真教真宗是れなり」（親鸞聖人）**\n\n**「それについて三経の安心あり、その中に大経をもって真実とせらる。大経の中には第十八の願をもって本とす。十八の願にとりてはまた願成就をもって至極とす」（覚如上人）**\n\n**「かの心行を獲得せんこと念仏往生の願成就の『信心歓喜乃至一念』等の文をもって依憑とす。このほか未だ聞かず」（覚如上人）**\n\n親鸞聖人より如信（聖人の孫）、その如信上人より面授口决された覚如上人の\"このほか未だ聞かず\"は強烈だ。\n『教行信証信巻』上下始終は願成就文の開顕であり、その真理は正に濁流滔々たる現代教界の最高批判たるべし。","href":"/qa/3-32?open=hitorigoto&hitorigotoId=95","タイトル":"この外聞かず","本文":"**「諸有衆生　聞其名号　信心歓喜　乃至一念　至心回向　願生彼国　即得往生　住不退転　唯除五逆　誹謗正法」（釈尊）**\n\n**「横超とは即ち願成就一実円満之真教真宗是れなり」（親鸞聖人）**\n\n**「それについて三経の安心あり、その中に大経をもって真実とせらる。大経の中には第十八の願をもって本とす。十八の願にとりてはまた願成就をもって至極とす」（覚如上人）**\n\n**「かの心行を獲得せんこと念仏往生の願成就の『信心歓喜乃至一念』等の文をもって依憑とす。このほか未だ聞かず」（覚如上人）**\n\n親鸞聖人より如信（聖人の孫）、その如信上人より面授口决された覚如上人の\"このほか未だ聞かず\"は強烈だ。\n『教行信証信巻』上下始終は願成就文の開顕であり、その真理は正に濁流滔々たる現代教界の最高批判たるべし。","教学聖典id":"3-32, 3-34, 4-5"},{"id":"96","globalId":"hitorigoto:96","sortOrder":"000095","kind":"hitorigoto","title":"廃立","content":"廃立\n**「主上、臣下、法にそむき義に違し、怒りをなし、うらみを結ぶ」**\n\n**「諸寺の釈門、教に昏くして真仮の門戸を知らず、洛都の儒林、行に迷うて、邪正の道路を弁うることなし」**\n\n**「しかるに、末代の道俗、近世の宗師、自性唯心に沈みて、浄土の真証を貶す。定散の自心に迷いて、金剛の真信に昏し」**\n\n**「今日よりは、親と思うべからず、子と思うこと思い切りたり」（親鸞聖人）**\n\n聖人一代の教えは『教行信証六巻』以外にはない。\n『教行信証』は三重廃立、\n◯内外廃立\n◯聖浄廃立\n◯真仮廃立\n一切の妥協を排し、徹頭徹尾、真実を開顕してゆく、冷厳無比な廃立の教えで貫かれている。\n親鸞聖人のみ教えを徹底するには、闘うしかないのだ。","href":"/qa/5-21?open=hitorigoto&hitorigotoId=96","タイトル":"廃立","本文":"**「主上、臣下、法にそむき義に違し、怒りをなし、うらみを結ぶ」**\n\n**「諸寺の釈門、教に昏くして真仮の門戸を知らず、洛都の儒林、行に迷うて、邪正の道路を弁うることなし」**\n\n**「しかるに、末代の道俗、近世の宗師、自性唯心に沈みて、浄土の真証を貶す。定散の自心に迷いて、金剛の真信に昏し」**\n\n**「今日よりは、親と思うべからず、子と思うこと思い切りたり」（親鸞聖人）**\n\n聖人一代の教えは『教行信証六巻』以外にはない。\n『教行信証』は三重廃立、\n◯内外廃立\n◯聖浄廃立\n◯真仮廃立\n一切の妥協を排し、徹頭徹尾、真実を開顕してゆく、冷厳無比な廃立の教えで貫かれている。\n親鸞聖人のみ教えを徹底するには、闘うしかないのだ。","教学聖典id":"6-20, 7-4, 5-21, 6-26"},{"id":"98","globalId":"hitorigoto:98","sortOrder":"000096","kind":"hitorigoto","title":"人類の終末","content":"人類の終末\n**「人身受け難し、今すでに受く。仏法聞き難し、今すでに聞く。この身今生に向って度せずんば、更にいずれの生に向ってか、この身を度せん」**\n\n\"生れ難い人間に生れてよかった。聞き難い仏法がどうして聞けたのか。\nいま人生の目的を達成しなければ、永遠に救われるチャンスを失っていただろう\"\n\n生れた時が飛び立った飛行機。\n悪戦苦闘の生き様は、乱気流や暴風雨との闘いであり、敵機との空中戦である。\n漸く激闘をくぐり抜け、帰還すると母艦の影も形も見あたらぬ。見渡す限りが大海原。\n燃料はもう無い。\nそこには人界受生の有難さも、仏法聞き難しの喜びもあり得ない。\n永い過去の死闘はなんだったのか。呆然自失あるのみ。\nこれを人類の終末にしてはならない。","href":"/qa/1-50?open=hitorigoto&hitorigotoId=98","タイトル":"人類の終末","本文":"**「人身受け難し、今すでに受く。仏法聞き難し、今すでに聞く。この身今生に向って度せずんば、更にいずれの生に向ってか、この身を度せん」**\n\n\"生れ難い人間に生れてよかった。聞き難い仏法がどうして聞けたのか。\nいま人生の目的を達成しなければ、永遠に救われるチャンスを失っていただろう\"\n\n生れた時が飛び立った飛行機。\n悪戦苦闘の生き様は、乱気流や暴風雨との闘いであり、敵機との空中戦である。\n漸く激闘をくぐり抜け、帰還すると母艦の影も形も見あたらぬ。見渡す限りが大海原。\n燃料はもう無い。\nそこには人界受生の有難さも、仏法聞き難しの喜びもあり得ない。\n永い過去の死闘はなんだったのか。呆然自失あるのみ。\nこれを人類の終末にしてはならない。","教学聖典id":"1-50"}]